本日のブログは苦難の連続あせるあせる
 
というのも、クイズから三春城、その城主であった田村氏、そして片倉小十郎について結構な量を書いていたのですが、パソコンが突然のシャットダウンガーン
 
気を取り直して、もう少しコンパクトにまとめていたら、なぜかまたシャットダウンDASH!DASH!
 
もうテンションは上がりませんダウンダウンダウン
 
ダダ下がりの中、まずは本日の【ケータイ 国盗り合戦】のクイズです。
 
 
1591年、三春城5万石を条件に秀吉の直属配下になることを打診されるも、主君への義理からこれを断ったとされる戦国武将は?
 
1.片倉小十郎
2.本田忠勝
3.前田慶次
 
 
正解は「1.片倉小十郎」でした。
 
正解率は72%、少し難しかったのかな。。。
 
【解説】
「参謀として伊達政宗を支えた片倉小十郎(景綱)の才覚を気に入った豊臣秀吉は、1591年の奥州仕置(東北地方における領主再編)の際、小十郎を直臣に迎えるため、三春城の城主の座と5万石の領地を提示します。しかし片倉小十郎はこれを固辞し、主君・伊達政宗への忠義を示したと伝えられています。」
 
三春城というのは福島県の中央部に位置する城で、田村氏の居城でした。
 
周囲には佐竹氏、蘆名氏、岩城氏、相馬氏ら有力戦国大名が隣接し、その圧力にも屈せず巧みな外交術で何とか切り抜けてきました。
 
田村義顕の時代には岩城常隆の娘を正室として岩城氏を後ろ盾に、その子である田村隆顕は伊達稙宗(正宗の曽祖父)の娘を正室として伊達氏から援助を受け、さらにその子の田村清顕は相馬顕胤の娘を正室にするなど有力大名と姻戚関係を結ぶことで外敵への後ろ盾を得てきたのです。
 
そして、田村清顕の一人娘である愛姫を伊達政宗に嫁がせることで、伊達家との関係を強化しました。
 
愛姫といえば「ゴクミ」を思い出します♡
 
※愛姫を演じた後藤久美子さん
 
愛姫が成人すると・・・この人もきれいだったな。
 
※桜田淳子さん
 
まだ桜田淳子さんが引退をされる前、銀座の花屋さんで一度、お見かけしたことがありますが、本当にきれいな方でした。
 
もちろんこの時の主役はこの人です。
 
 
男子の後継ぎがいないまま田村清顕が亡くなると、田村家中は大変なことになります。
 
清顕の妻の実家は相馬氏、一人娘の嫁ぎ先は伊達氏。
 
家臣団が相馬か伊達かで分裂しますが、最終的に伊達政宗が相馬支持派を退けて、清顕の甥にあたる田村宗顕を当主にさせ、伊達氏の支配下に置くのでした。
 
そのため、豊臣秀吉による小田原攻めに際しては、秀吉になかなか臣従の意思を表さない政宗は小田原に参陣しません。
 
また田村宗顕にも一大名として参陣するように秀吉から命令が来るのですが、田村領は伊達の支配下であるとして参陣しなくてもよいと政宗が指示をするのでした。
 
結局、遅参はしたものの小田原に参陣した伊達家は減封されたものの取り潰しは逃れ、参陣しなかった田村家は取り潰しとなるのでした。
 
そういった背景から、秀吉による奥州仕置で伊達家第一の重臣である片倉小十郎景綱に直臣として三春城主になるように勧められるのです。
 
小十郎の秀でた才覚は豊臣政権に欲しいという思いのほかに、伊達家家臣団の弱体化を狙った秀吉得意の作戦でもありました。
 
秀吉は陪臣(秀吉に臣従した大名の家臣のこと)を自分の直臣にすることで、警戒する大名家の弱体と家臣団の反目、分裂化を狙ってこういったことをしました。
 
それは家康の家臣団にも触手を伸ばしましたし、島津家や毛利家、上杉家にもこういった働きかけを行っていましたね。
 
片倉小十郎景綱の気持ちは揺らぐことなく固辞するのですが、一方で田村宗顕は片倉家の城下に移り隠棲し、その子らは片倉姓を名乗ったそうです。
 
片倉家は伊達家の家臣とはいえ、白石城主として大名並みの扱いを受け、江戸時代は伊達家の屋敷とは別に片倉家の屋敷が用意されていたそうです。
 
さて、最後に田村家に話を戻すと、政宗の孫・宗良が田村家を再興します。
 
後に一関藩・田村家へと続き幕末を迎えるまで一関を統治することになります。
 
東京の新橋に旧町名で田村町という住所がかつてありました。
 
ここは一関藩田村家の屋敷があった場所なのですが、赤穂事件で浅野内匠頭長矩が切腹した場所でもあったのですよ。
 
そういえば7年前にも書いていました ⇒⇒ こちら
 
何度書き直しても全然違う内容になりましたあせる
 
片倉小十郎のことを書こうと思って書かずじまいで終わります。
 
あ~あ、2度目に消えたブログは小十郎について一生懸命書いていたのに 汗