今日は毛利3兄弟のお話です。
 
 
まずは本日の【ケータイ 国盗り合戦】のクイズです。
 
 
吉川元春の「吉川氏」、小早川隆景の「小早川氏」。この2つの大名家から連想される言葉は? 
 
1.三好両川
2.毛利両川
3.長宗我部両川
 
正解は「2.毛利両川」です。
 
正解率は84%。
 
【解説】
「吉川家の当主となった吉川元春と、小早川家の当主となった小早川隆景はいずれも毛利元就の息子であり、この両家の補佐により、毛利家は中国地方に一大勢力を築き上げました。この毛利家の体制は、吉川・小早川の両家にちなみ「毛利両川」などと呼ばれます。」 
 
毛利家は鎌倉幕府の政所 初代別当の大江広元を祖とする血筋の家柄でしたが、毛利元就の頃は安芸国の小さな国人領主にすぎませんでした。
 
※毛利元就さん
 
幼少の頃から苦難の連続であった元就は、4歳で母と死別、10歳で父が急死、家臣に毛利家の所領を横領されて城を追い出され、あばら家での生活を強いられました。
 
19歳の時に長兄が亡くなり、幼少の甥・幸松丸の後見役を務めます。
 
ところが、幸松丸がわずか9歳で亡くなり、27歳で毛利家を相続することになりました。
 
分家の元就が家督相続をするにあたっては、毛利家の家臣団の中には反対する実力者もおり、謀反が発生したり、毛利家臣団に揺さぶりをかける周囲の国人領主たちと緊張状態が続きました。
 
よく毛利元就は権謀術数に長けた戦国大名と語られますが、こういった苦労の積み重ねがあったため、自然とそうならざるを得なかったのですね。
 
戦国時代の大名や国人はどこの家でもそうであったように、常に家臣の裏切りに遭わないよう細心の注意を払いつつ、宿敵の国人領主とは駆け引きをしながら策略を張り巡らし、宿敵を蹴落としていかないと毛利家自体が存続できなかったからなのですね。
 
さて、3人の息子たちの話です。
 
吉川家は同じ安芸国でも有力な国人の一つでした。
 
元就の妻は吉川基経の妹を、吉川基経は元就の姉をそれぞれ娶ることで姻戚関係を結んでいました。
 
義兄にあたる基経が亡くなり、基経の子である興経が当主となると家臣団が離反し始めます。
 
というのも、興経は武勇には優れるものの器量に欠け、当主としての資質が問われるようになったからです。
 
結果、元就の二男である元春を吉川家に養子として送り、興経を強制隠居させて吉川家の当主とするのでした。
 
一方の小早川家。
 
安芸国の有力国人で本家の小早川家(沼田小早川)と分家の小早川家(竹原小早川)とがありましたが、分家の小早川家の当主であった小早川興景が戦場で病死したため、元就の三男を跡継ぎとして養子に迎えることになりました。
 
これは小早川家からの強い要望でしたが、この三男が後の小早川隆景です。
 
その後、本家の小早川家の娘を娶って小早川家を統合することで、小早川水軍も隆景の掌中に入りました。
 
長男の毛利隆元はとても温厚な性格で実直、まじめで自己主張をしない人だったそうです。
 
そのため、2人の弟たちと比較をすると地味、とにかく地味な武将だったようです。
 
兄弟3人が仲が良かったのかというとそうでもなかったようで、むしろ不仲だったようです。
 
毛利家の二男、三男といってもそれぞれが安芸国の有力国人の当主であり、当時の毛利家、吉川家、小早川家は主従関係というよりは対等な国人同盟のような状態であったからです。
 
そこで家名存続に尋常じゃないほどこだわった元就は三人の子どもたちに宛てて「三子教訓状」を書いたのでした。
 
これが「三本の矢」の逸話のもとになりました。
 
地味なお兄ちゃん・隆元は41歳という若さで不慮の死を遂げるのですが、二人の弟はより一層、本家を守るように尽力するのでした。
 
この続きはのちほど・・・