こんにちは!

昨日のつづきです。

洞坂を下りていくと東禅寺というお寺の前に出てきます。

東禅寺は佛日山と号した臨済宗妙心寺派の別格本山です。

開基は日向の飫肥藩主・伊東祐慶で、慶長14年(1609年)に赤坂で創建されました。

そのため、東禅寺は飫肥藩・伊東家の菩提寺となります。

飫肥は「おび」と読みます。

現在地には寛永13年(1636年)に移転し、すぐ目の前の海からは大きく立派なお寺が目立っていたそうです。





ここには伊達政宗の長男で初代・宇和島藩主となった伊達秀宗のお墓があることに関係してか、宇和島藩・伊達家だけでなく仙台藩・伊達家の菩提寺にもなっています。

また岡山藩の池田家の他、多くの大名家の菩提寺となる名刹でした。





そんな名刹も幕末になると檀徒との信頼関係が揺らぐ大事件に巻き込まれてしまいます。

安政5年(1859年)にイギリス公使館が東禅寺に置かれ、ラザフォード・オールコックが公使として駐在することになったのです。





当時は「神州日本を穢した外国人を討つ」と攘夷一色に染まっている時代でしたから、幕府から一方的に押し付けられたとはいえ、東禅寺に対する風当たりはかなり厳しいものだったようです。

激昂する檀徒は多く、中には歴代の霊牌を託せないからと霊殿を壊して持ち去る大名家も現れたそうです。

さらに、恐怖のドン底に突き落とされる事件が続けて発生します。

それが東禅寺襲撃事件です。

水戸藩を脱藩した浪士14名が東禅寺に侵入しオールコックらを襲撃したのです。

しかし、幕府側はテロに備えて各公使館に諸藩や旗本から構成される警備兵を配していました。

この東禅寺には番所が10ヶ所あり、交代制で昼夜を問わず警備がされていました。

彼ら警備側にも死傷者を出したものの、イギリス外交官側は負傷者2名で済みました。


さて境内に入ると、三重の塔が目に飛び込んできます。

比較的新しい塔のようで、幕末期には当然なかったものです。





鐘楼です。

その鐘楼の下に青いモノが見えますが、近くに寄って見ると寝袋でした。

寝袋の中には熟睡している人がいましたよぐぅぐぅぐぅぐぅ(笑)





本堂には朝鮮通信使の一行として来日した雪峰の揮毫による「海上禅林」の扁額が掲げられています。





庫裡入口です。

ここには東禅寺襲撃事件での生々しい疵痕が今も残されています。





斬り込んできた浪士らに対し、警備側は銃で応戦しました。

その弾痕がたくさん残されています。





オールコック自ら短銃を取って応戦したようですから、その弾痕もこの中にあるかもしれません。

また柱が刀で削られた痕も残っています。





さらに水戸浪士による東禅寺襲撃事件の翌年にも、またまた東禅寺で事件が発生します。

東禅寺など各外国公使館の警護というのは、諸藩に大きな負担が強いられました。

まず費用については、警護を命じられた各藩が負担しなければなりません。

裕福ではない藩だと、その藩士達にも経済的な影響を与えました。

また警護を命じられたからといっても、開国派という訳ではなく、むしろ思想は攘夷だったりする藩士や旗本がほとんどでした。

不本意ながら異国人を守って、なぜ日本人同士で斬り合わなければならないのか、恐らくほぼ全ての武士達が悶々としていたはずです。

東禅寺で警護にあたっていた信濃・松本藩士の伊藤軍兵衛もそんな一人でした。

英国公使を斬り殺せばこれら問題が解決し、松本藩は警護の任から解放されるのではないかと考え、夜中に代理公使のジョン・ニールの寝室に侵入を図ります。

しかし、警備をしていたイギリス水兵2名に見つかってしまい、伊藤は彼らを斬り殺した後で自害しました。

開国したばかりに数々の悲劇が度重なった東禅寺でしたが、幕末の外国公使館としての遺構が唯一残されているとして、6年前の平成22年(2010年)に国史跡に指定されました。