由比正雪の生家「正雪紺屋」の真正面に「由比本陣公園」があります。

この建物は東海道五十三次の旧宿場町の中でも圧巻です。

また、周囲に高い建物がないため、空を近くに感じるからこそ建物の大きさも感じるのでしょうね。





この公園には安藤広重の浮世絵を集めた「東海道廣重美術館」が併設されています。

この美術館は広重の名を冠した日本初の美術館で、様々なバージョンの「東海道五十三次」や晩年の名作「名所 江戸百景」など約1,400点の浮世絵を収蔵しています。

復元した建物とはいえ立派な門構えです。

この由比は鎌倉時代に源頼朝から所領を安堵された大宅氏の子孫が由比氏を称して権勢を誇った地だそうです。

鎌倉時代には地頭に任じられたのかな?

やがて室町時代に入ると今川氏に属する豪族としてこの地を治めますが、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元とともに当主の由比光教は討死します。

そのため光教の子、由比光広は帰農してこの地に永住しました。

程ケ谷(保土ケ谷)の項でも書きましたが、江戸時代の本陣、名主や問屋場役人はかつての豪族やその土地の支配者であったことが多く、ここ由井宿の本陣も代々、由比家が世襲してきました。

恐らく、問屋場役人など町の有力者は由比光広の子孫が任じられていたと思います。

現在の建物は平成になって由比家から由比町が本陣跡地を購入して再現したそうですが、恐らく江戸時代もこのように豪勢で立派な門構えであったと思われますので、桶狭間以降、帰農してもなお相当な力を持った有力者だったのではないでしょうか。





明治天皇はこの由比に3度立ち寄り、休憩をしたそうです。

また平成13年には焼津漁港で開催された「第21回全国豊かな海づくり大会」へのご臨席に合わせ、今上天皇、皇后両陛下が「東海道廣重美術館」をご見学されたのを記念した碑が並んでいます。





この門をくぐると正面には本陣の主屋があったそうです。

残念ながら明治初年に解体されてしまったそうです。江戸に向けて進軍してきた官軍も利用したのか、または官軍との間で何かあったのかわかりません。





横断幕には井の文字の中に由の文字がデザインされています。

さて、この本陣は間口が三十三間(約60m)、奥行四十間(約73m)、敷地面積が1,300坪(4,300㎡)の広さだったそうです。





立て札の説明によると向かって真正面が美術館ですが、その右隣(向かって左側)の木造家屋は明治天皇が休憩した離れ屋を再現したもので、その付属の庭園は山岡鉄舟が命名した「松榧園」という庭です。

この東海道で山岡鉄舟 二度目の登場です。(まだまだ登場します…鉄舟好きですからI)





明治天皇が休憩した離れ屋「御幸亭(みゆきてい)」




山岡鉄舟が命名した「松榧園(しょうひえん)」





敷地の中には往時の遺構もあります。それがこの井戸です。

この井戸は実際に本陣で利用されていた井戸ですが、深さは5.5mもあったそうです。井戸内部は切り取った岩が四方を囲んで積み上げられた立派な井戸です。





そして下の写真。亀が甲羅干しをしています。

本陣の表門脇の石垣の前には堀のように長さ20m、幅1m、深さ60㎝の水廻りを配して、馬の水呑み場としていたそうです。

旅で疲れた馬を洗うためにも利用したそうですが、なかなかこれだけの施設はなく、それだけこの本陣の威容は大変なものだったということが窺い知れます。





本陣の斜向かい、「正雪紺屋」の隣には「饂飩脇本陣」の跡地と明治期の郵便局だった建物があります。

元々この由井宿は本陣が1軒、脇本陣が1軒、旅籠が32軒、人口も700数十人という小さな宿場町でした。

江戸時代末期になると脇本陣がもう1件増やされ、それがこの「饂飩脇本陣」だそうです。

なぜ饂飩(うどん)なのかわかりません。

明治期に入ると飛脚に代わって郵便事業が始まりますが、当時の郵便局が写真御側の建物です。





そして元からあったもう1軒の脇本陣。こちらは当初、徳田屋が脇本陣を務めていましたが、羽根ノ屋に代わったようです。





羽根ノ屋はここから二つ先の江尻宿で脇本陣を務めた羽根ノ屋の分家だったそうで、幕府に願い出てこの由比でも脇本陣を務めることになったようです。

午前中から活動的に見て回りましたが、実はこの由比で最も楽しみにしていた訪問先は、次のその3で書きます。