小さな漁村だった横浜を開国したことで神奈川宿周辺も大きく様変わりを始めます。

まずアメリカ、イギリス、フランス、オランダといった国々のために神奈川宿の寺院が領事館として接収されていきます。


アメリカは幕府が用意した領事館を断り、横浜港や神奈川宿を見下ろすことができる本覚寺を領事館として接収しました。
この本覚寺については駐日公使であったタウンゼント・ハリス自らが決めたそうです。










長く仏の教えを守ってきたお寺にとって、異人に領事館として差し出すこと自体、迷惑甚だしかったため、わざわざ屋根を抜いて「修理中」を理由にして領事館の指定から逃れた寺院もあったそうです。

そんな状況の中、アメリカ領事館にされた本覚寺は、その山門を白ペンキで塗り替えられ、墓地にあった大きな松の木は旗竿代わりにされたそうです。

領事館時代の約3年間、寺僧は退去させられ、ご本尊は板で覆い囲われ、一般人の立ち入りが禁じられたため、お寺や檀家さんの苦労、悲しみは半端なかったことでしょう。。。ご先祖供養もできませんしね。

また領事館としての使用料もなかなか払ってもらえなかったようですので、本当に踏んだり蹴ったりですよね。





山門の手前には日米修好通商条約を推進するなど開国に尽くした岩瀬忠震を「横浜開港の首唱者」として顕彰する碑が建っています。





そういえば、生麦事件の際には、負傷したイギリス人がこの本覚寺でヘボン博士から治療を受けたそうです。


次にイギリスが領事館として使用していたのが浄瀧寺です。
こちら大きく立派な日蓮宗のお寺です。





日蓮上人が安房国から鎌倉へ向かう途中、日蓮の人柄や教えに感動した妙湖尼がすぐさま弟子入りし、自らの庵を法華経の道場にしたのが始まりだとか。

池上本門寺の代々の貫主が鎌倉へ行く際には必ず立ち寄る寺院だそうです。





そしてフランス領事館として接収された慶運寺です。

幕末史においてフランスは米英に比べてかなり親幕寄りの姿勢を取ります。

幕府崩壊時には当時の公使であるレオン・ロッシュの個人的外交にまで発展しますが、英国人ハリー・パークスへの対抗心からともいわれ、また英米のように多数の通訳を抱えていた訳ではなかったために当時の時世(余命短い幕府に対し勢いのある薩長勢力の軍事力の近代化など)が読めなかったことが原因とされています。





この日、多くの徒歩によるツアー客がこの慶運寺を訪れていましたが、フランス領事館跡だったからではありません。

実はこのお寺、浦島太郎伝説に縁のものが多く所蔵されているお寺で別名:浦島寺ともいうそうです。

なんでも竜宮城で乙姫からもらった玉手箱もあるとか。。。今度改めて訪れたいお寺です。