読書について、強い信念があって・・それは、
「情報を得る」とか「理解する」とか・・文字とは、それだけの作用では終わらないものだ、ということだ。読書とは
触角であり、嗅覚であり、聴覚であり、感覚そのものだ。視覚が与えてくれる「情報」はほんの数パーセントだと思うし、
そうした自分の感覚が研ぎ澄まされる絶対的な「メディア」として利用したい、ということをずっと小さいころから思っていた。それは読書にとどまらない。
英語も、バレエも、ビジネスも、写真も、アートも・・なんでも適用できる。感じることができないのなら、情報すら活用できない、要するに「生きてる」ことにならない。とさえ思っている。
表面的な情報は、一瞬支えてくれるけど、これだけ情報があふれて選択することを脅迫される時代になると、余計にこの「感覚」に寄りそう姿勢が必要になってくるんじゃないだろうか。
ちなみに、私の周りには「数字のプロ」として世界に関わってる人がたくさんいるけど、彼らに共通するのは、
とてもアーチストな側面があることだ。あれほど忙しいのに、文化をたしなむ人が多い。そして、びっくりするほど幼稚なことに感動したり、それをいとも簡単に他者に見せてしまう。
情報を掴んだステージの話は飛ばされていて、それをどう「感じたか」ということをとても大切にして、表現して、行動を決めている、そういう感じの人が多い。
児玉清氏の言葉には、「感じる」ことが「考える」や「知る」と同じくらい大切だというようなメッセージをちょっと感じたりしてうれしくなっていた。
最近だと「阪急電車」の最後に言葉をそえておられるので、お時間があればぜひ・・児玉清節全開で、「好きだ、好きだ」と始まる文章なのに、言葉に精通しておられるので、やがてはその説得力ある文章で読者を巻き込む。そして、興奮が伝わる。人が繋がる。
先日、護国寺で児玉清さんのご葬儀が執り行われ・・・・・
児玉清さんの旅立ちに・・・・・
合掌。