一度、千葉県市原市にある千葉県循環器病センターという大きな病院に行ったことがある。県外からはとんでもなく遠かった。いや、県内からもきっととんでもなく遠いだろう。
母方の伯母が入院していたのだ。母はよく見舞いに行っていた。私より年長の従姉妹が二人、見舞いに行った。それを見て何を勘違いしたのか、母は私も見舞いに行かせないといけないと思い込んだ。
「小さい時世話になったから」と言っていた従姉妹は、私よりも7~8歳上だ。その頃、伯母一家や従姉妹一家はこの近所に住んでいたらしい。らしいがつくだけあって、私は覚えていないのだ。学齢期だった従姉妹は覚えていても、乳幼児だった私には記憶がない。伯父にも伯母にも30年、40年会っていなかった。
正直言って、他の従姉妹も行っていないし私は行くつもりはなかった。
だが、いくらそう言ってみたところで、一旦思い込んだ母の暴走は止められない。行かないより行く方がいいのだから、母はあくまで強気である。毎日、「いつ行くんだ」と迫ってくる。
その頃は仕事にも出ていて、休みの日はそれなりに用事もあったので、のらりくらりとかわしていたが、ついに観念して行くことになった。我が家のいつものパワーゲームのパターンである。
母から行き方のレクチャーがある。東京駅まで出るのは判った。が、その先が不明である。何線に乗って何駅で降りるのか定かに説明できないのだ。「おばあちゃんは何度も行ったから行けるんだ」
いや、行くのは私なんで、私が判るようになってないと行けないんだけど…。仕方ないので、病院の名前を聞いた。電話番号は判らないと言う。
104番の出番だ。「千葉県の鶴舞病院お願いします」
「お客さま、鶴舞病院はありませんが…」心臓に悪い。
「えええ~~~、上総牛久という駅が最寄り駅だそうですがっ」
「お待ち下さい。それでしたら、千葉県循環器病センターのことだと思います。そちらでよろしいですか」
「す、すみませんっ。そちらは鶴舞病院と言いましたか?」と焦って病院に電話する。建物ごとだかどうだかは判らないが、新しい病院名になったようである。
「私は横浜に住んでいますが、東京駅まで出てから先がよく判らないので教えて頂けますか?」
聞いただけで気が遠くなりそうな乗り換え方だった。
「最後の小湊鉄道は単線で本数が少ないので…」単線、単線なのか。
揚げ句に「おじいちゃんも一緒に」とのご注文。その頃、父は耳は遠かったが元気だった。が、どこかに行く時は他人任せである。案の定、乗換えの心配などどこ吹く風で、行きの東海道線から高いびきだ。あああ、頭が痛い。
それでも、往きは奇跡的に小湊線の乗り継ぎもよく、まあまあの時間で病院に着いた。さて、ここでもう一つの問題点。病室が判らないのだ。
母はいつも「5階の右に行った所」とか「4階の真ん中辺り」とかそういう説明の仕方をする。何号室か言ってくれれば判るのだが、それは覚えてこない。揚げ句、いつも「○○の姉さん」と呼んでいるものだから、伯母のフルネームも判らない。母が知らないものを私はもっと知らない。幸い、母の旧姓はかなり珍しいのでそれが頼りだ。
何とか病室に辿り着くと、何十年ぶりかで見る伯父が座っていた。すっかりおじいさんだ。
「おじさん、私、誰だか判る?」と声をかけた。答えは予想通りだ。
「判らないなあ…」が、後から入ってきた父のことは判った。「久し振りだなあ、○ちゃんじゃないか。じゃあ、お前は憂季か?そうか、遠くから悪かったなあ」
うつらうつらしているように見える伯母に、伯父が声をかけた。「おい、○△(母の名)の所の○ちゃんと憂季が来てくれたぞ」
伯母は、すぐには私が判らないようだった。私が見ても、長くないのが見て取れた。しばらくすると、
「ああ、憂季ちゃん、やっと判ってきた。春になったら、病院じゃなくておばさんの家においでね。花が綺麗だから」
「そうだね、じゃあ、春までには退院しないとね」
けれど、伯母は春を待たずに亡くなった。
そして、その帰り道。バスで最寄り駅まで行ったら、改札が閉まっている。終電でもないのに閉まっているのは、生まれてはじめて見た。電車の時刻まで1時間以上もあるので、その間は閉まっているらしい。どひゃーーだ。
その幕開け通り、帰りの乗り継ぎの悪さといったら…である。東京駅で東海道に乗ったら、何時寝たのかも気づかずに眠ってしまった。
結果的には、私が見舞いに行ったことで伯父やその息子・娘になるいとこはとても喜んでくれた。けれど、私の精神のバランスは少し崩れ気味になった。常に折れなければならないからだろう。
その後にわさわさと起こった色々な出来事が重なって、薬を飲むようになったことの発端となった。