知人がある採用試験を受けたが、結果は残念なものだったそうだ。
彼女は泣きながら「採用担当は私の頑張りを認めてくれない」と言っていた。
私はその発言に内心驚いた。
こういう場合、「自分のどこが駄目で不採用になったのか」という考えに至るものだと思っていた。
この「自分の何かが悪いから落ちる説」は、新卒採用就活の過程で徹底教育される考えである。
無論、私もそのように教育され、周囲の同期もまた同じように教育された。
同じ考えの者同士の環境で過ごしていた私。
やがて、誰もが「自分の何かが悪いから落ちる説」を唱えるものだと無意識に思っていた。
それゆえに、突如として現れた「人事が悪いから落とされた説」の存在は驚愕しきりである。
私は「人事が悪いから落とされた説」には賛同できない。
相手は自分に何を求めているのだろうか、自分は好感の持てる人だろうか。
それらに沿って行動することもたまには必要だと思っている。
勿論、相手の目を気にして生きるのが最上なのだと言っているわけではない。
たまにはやったほうがいい、という程度の話だ。
「ありのままの自分をみてほしい」という人がいる。
そんな人が、「好感の持てる人」を演じるのは、白々しくて嫌気がさすだろう。
しかし人とは、自分はともかくとして、相手には「好感の持てる人」を求めるのだ。
「ありのままの自分」とは、土がついたままの生ジャガイモである。
そのままではとても食べられない。
調理しなきゃ食べてもらえない。
「ありのままの自分」で勝負できるのは、土がついたままの生ジャガイモを美味しそうに見せるようなプレゼンができる人のみなのだ。
そんな人はどれだけいるだろうか。