ネット・ストーカー問題(24) 「正命」 | ホルコンマスターコウの虎視眈々

ネット・ストーカー問題(24) 「正命」

 

 こんばんは。

 

 今回は、やや趣向を変えて、世の中の出来事についてです。

 

 まぁ、その内容は、他人のお金を狙っている、という話でしょうから、

 ある意味では、ストーカーのようなものでしょうか。

 

 追いかけているものが、人間なのか、

 それらの人間が持っている財産などかの違いかもですね。

 

 何にしても、迷惑な話です。

 

 それでは、最近のニュースなどからの引用です。

 

 

 

 

 

 

 

 以上です。

 

 そうそう、犬さんも、マルチ商法の被害に遭われたとかの、

 個人の日記を書いておられましたので、リブログさせて下さい。

 

 

 現時点でも、マルチ商法などの、

 勧誘を受けておられるみなさんもあるでしょうから、

 何かの参考になればと思います。

 

 まぁ、仏教の話になりますけれど、「正命(しょうみょう)」ということで、

 人としての、「正しい生き方(生活)」になるのかな。

 

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  釈迦の本心 P81~84

 

 だれにとっても、一日は二十四時間、一年は三百六十五日で成り立っています。また、だれもがやがては地上を去ることになっています。大多数の人は百歳まで生きることさえできません。

 人間は一日の枠のなかで何時聞かを睦眠にとられ、さらに何時聞かは食事など生活に必要な時間にとられます。そして残された時間が、仕事の時間だったり、自分のための時間だったりするのです。

 だれに対しても一日が同じ枠として与えられているという事実は、恐るべきことです。生まれつきの才能などに関係なく、だれに対しても同じく二十四時間が与えられており、その二十四時間をどう使うかによって、その人の人生が決まっていくというのは、このうえなく公平なことだと私には思えます。

 この二十四時間を使って、ある人は一国の宰相となり、ある人は大学者となり、ある人は思想家となりますが、ある人は単なる無為徒食の輩となることがあります。この差は、時間という観点から見たときには、結局、「時間の中身をどのように充実させていったか」ということに起因するのです。

 したがって、正命(しょうみょう)を現代的に翻訳し直すならば、「どのように一日を生きているか。どのように二十四時間を使っているか」という考え方になります。また、「二十四時間の積み重ねである毎月毎年を、どう生きているか」ということにもなります。

 ここで私は大事な事実を指摘しなければなりません。それは、「時間を貴重なものだと考えるならば、一日の枠を一生として考え直し、そのなかで時間をいかに使うべきかに、思いを巡らせなければならない」ということです。

 たいていの人は、「きのうがあったように、きょうがあり、きょうがあるように、あすもあるだろう」と楽観していますが、あすの生命があるという保証はないのです。もし、きょう一日で、きょうの夜中の十二時で、みずからの人生が閉じてしまうならば、さあ、どうしますか。あなたはどう生きますか。「しまった」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。

 結局、正命とは、「きょうで生命が終わると考えたならば、おそらく自分はこのように生きただろう」という観点なのです。こうした観点から見たとき、反省すべき点が出てくるはずです。あちらにもこちらにも、さまざまな可能性があったのに、その可能性を捨てて生きていた自分を思い知らされるのです。

 要はこの一点です。「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」という観点から、一日の出来事や自分の言動を判断していくことです。これを続けることによって初めて、「正しく生活をしている」と言うことができるようになるのです。

 

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 折角なので、こちらも引用しました。

 

 「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」

 

 そうですね。

 

 他人様に迷惑をかけたり、嘘を吐いたり、騙したりしている人たちは、

 いつかの時点で、後悔をすることになるかと思います。

 

 結局、ネズミ講にしても、マルチ商法にしても、

 その他の投資詐欺のようなものでも、

 自己実現のために、他人を利用しているという構図でしょうか。

 

 その発想の時点で、間違いがあるでしょうから、

 その先、どのように転ぼうとも、難しくなるのかもしれません。

 

 スタート地点が、間違っているという視点も、ありえそうです。

 

 少し話題を戻して・・・

 

 SNSなどでの嫌がらせ行為や、付き纏い行為や、悪評などの行為も、

 その時点で、間違っているわけで、正当性が生まれることが難しいのでしょう。

 

 はじめの一歩が、間違っていると。

 

 そして、間違いを正しく見せようとするので、偽装をするので、

 余計に、ぐちゃぐちゃになるのかもです。

 

 自己矛盾だらけとか、そうしたケースもあるかもしれません。

 

 (ま、長くなるので、省略します。)

 

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 「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」

 

 さて、個人論として、一般人の立場や、

 宗教の一信者の立場で、この言葉には、重みがあります。

 

 愚者は、警察などに捕まって、はじめて後悔をすることになり、

 賢者は、他人の生き様から、同じ轍を踏まないようにすると。

 

 賢くありたいものです。

 

 一度でも失った世間や他人からの信用は、

 なかなか、回復をしないものかとも思いますしね。

 

 今回のような世間のニュースを考えたときに、

 明日は我が身ということでもあり、「八正道」を学び直したいと思います。

 

 以上です。

 

 ありがとうございました。