ネット・ストーカー問題(22) 「消毒」
こんにちは。
今回も、幸福の科学の教義に沿った日記になります。
そもそも、一般的な宗教の教義とは、人間としての幸福論というか、
人間関係でのトラブルなど防いだり、
解決をしたりする智慧を、学べるものでもあると思っています。
幸福になるための考え方のようなものでしょうか。
その意味で、私たちなども、SNSに出没をしなければ、
平均値以上の幸せな暮らしが、続いていたのかとも思います。
まぁ、SNSに関わったことで、地獄に堕ちたわけでもないのですが、
付き合う人たちによっては、心底、残念な気持ちになったり、
恐ろしく疲れたりと、ありました。
(自分たちが、そう思われたかも?という視点もあります。)
それで、今回は、参考書籍の抜粋を学び直しながら、そんなことを考えてみます。
どうぞ。
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人間関係で悩んでいる人たちに、最初に言っておかなければならないことは「ものの見方」についてです。すなわち、「物事を見るときの見方や感じ方は、本当に人それぞれであり、誰もがまったく同じではない」ということです。そして、ここから人間関係の問題のすべてが始まっているのです。
これについて、たとえ話を紹介しましょう。
アメリカで、アルコール中毒の患者たちを更生させる仕事をしている人が、セミナーで次のような実験を行ったそうです。
その講師は、まず、コップを二つ用意し、片方には真水を入れ、もう片方には、濃度の高いアルコールを入れました。そして、水の入ったコップに、ミミズを一匹入れたところ、ミミズは元気に外へ這い出してきました。
そのミミズを捕まえて、今度は、アルコールの入ったコップに放り込んだところ、ミミズは、しばらくすると死んでしまったのです。
そこで、セミナーの講師は、アルコール中毒患者に、「みなさん、どうですか。この実験から何か学ぶことはありますか」と訊きました。
もちろん、その講師は、立場上、「アルコールは、生き物がたちまち死んでしまうほど有害であり、怖い毒物でもあるのだ」ということを印象付ける目的で質問したわけです。
ところが、患者の一人から、「アルコールを飲めば、お腹のなかの虫を殺せることが分かりました」 という返事が返ってきたのだそうです。
確かに、そういう考え方もあるでしょう。「ミミズが死ぬぐらいだから、アルコールを飲んでいれば、お腹のなかの虫も死ぬだろう。常にお腹の消毒ができてよい」という考え方もあるわけですね。こういうところから人間関係のすれ違いは起きてくるのです。
人は、同じ事実を見ても、それぞれ、違った解釈をします。特に、手の焼ける人は、エゴイスティックというか、自己中心的に物事を考えるようなタイプです。こういう人との人間関係の調整は困難を極めます。
アルコール中毒患者の話を笑い話として紹介しましたが、そういう「同じ事実に対して、まったく違う解釈をする人」は現実にいます。したがって、「好意をもって相手に接したとしても、相手がそう受け取らない場合もある」ということを知らなければなりません。
ただ、「いろいろな見方がある」ということ自体は許容しなければいけません。
「他の人の見方や感じ方は自分と同じではない。同じ事実に対しても、いろいろな見方がありうるのだ」ということを知らなければいけませんし、それを知ることが、その人自身の認識力の大きさ、あるいは、他人に対する寛容さや包容力につながっていくのです。
ところが、「自分の見方がすべてであり、それ以外の見方はないのだ」と思いすぎると、人間関係を向上させていくのは極めて難しいと思います。
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以上でした。
私なども、実は、変わった視点を持っていると言われることがあって、
このミミズの話を読んだときに、そんなには、違和感を感じませんでした。
アルコールは、消毒にもなるので、悪いことばかりでもないかも?と。
まぁ、その事例については、簡単に言えば、その場の空気を読めない人か、
独特の思考センスが、ある人なのかもしれません。
或いは、高濃度のアルコールの中に、ミミズを投げ込んだら、
普通、死ぬよね?って、わかっていたので、退屈だったのかもです。
もう少し言えば・・・
周囲の人たちを笑わせようと、あえて、そんな切り返しをされたのかもです。
と、よい意味かは、わかりませんけれど、
本当は、わかっていて、あえて、変わったことを言う人の気持ちが、
微妙に理解できなくもないので、そこまでの違和感がなかったという感想でした。
ただ・・・
本文中にもありますように、
エゴイスティックや、自己中心的な発想が強すぎる人の場合は、
やはり、人間関係でのトラブル・メーカーになるのかもしれませんし、
理解はできても、妥協はしたくないかとは、思うようになりました。
うん、事例を書こうと思えば、いくつでも、出てきそうですが、
ぜんぜん、関係のない話を書いても、
「自分のことを言われている!」と、勘違いをされるケースもありそうで、
そこらへんが、何かの事例を書くにも、気を使います。
いや、本当にあった話というか、他人の世間話や、噂話が、
すべて、自分に関係があると、錯覚をされるような人たちもあって。
↑ 例えば、この文章を読んでも、「自分のことか!?」と、思う人があるようなのです。
普通、そこは、「気にするところではないでしょ?」と、
ダルいとは思いながらも、説明をしても、ダメなこともあると。
恐ろしく疲れるというのは、そういうことでもありますか。
あと、少し余談で、質問が多すぎる人も、嫌われると思います。
自分で考えたり、調べたら、わかりそうなことでも、とにかく、聞いてくる人。
「質問依存症」・・・ みたいな感じ?
もちろん、相手のことを考えて、
その相手が、より思慮深くなったり、広い視点を持つために、
善導や教導の動機があって、質問をされる人たちもあるかと思います。
仏教用語で、「禅問答」のようなものでしょうか。
あなたが、どのくらい悟ったのかのテストのようなもの?
そうした話であれば、私も嫌いではないので、
それなりに、ストレスなく、上手に、付き合えるわけです。
しかし、「質問依存症」みたいなものは、もう、ごめんなさいと言いたいです。
ようは、相手を疲れさせ、嫌われるということは、
エゴイスティックや、自己中心的な発想が、その原因にあるのかもしれません。
利他 < 利自
相手のためなのか、自分のためなのか。
エゴイスティックや、自己中心的に考え、生きている人たちが、
他人に好かれるという話は、聞いたことがありませんので、
やはり、そのへんの自己客観視は、あったほうがよいかもしれません。
あぁ、SNSなどでの事故を見ていますと、
何でも、いきなり、というケースがあると思います。
■ いきなり、挨拶もなく、質問をしてくる。
■ いきなり、聞かれてもいない、自論を書きまくる。
■ いきなり、意味不明なコメントをする。
■ いきなり、反論や文句を書く。
こうしたものは、事故の元かとも思います。
赤の他人というか、自分が知らない相手であれば、
とりあえず、挨拶からとか、「質問してよいですか?」と、
アポを取ったほうが、賢いかもしれません。
と、まだ書くつもりでしたけれど、
用事もあり、今回は、そんなことを考えてみました。
以上です。
ありがとうございました。