ネット・ストーカー問題(22) 「消毒」 | ホルコンマスターコウの虎視眈々

ネット・ストーカー問題(22) 「消毒」

 

 こんにちは。

 

 今回も、幸福の科学の教義に沿った日記になります。

 

 そもそも、一般的な宗教の教義とは、人間としての幸福論というか、

 人間関係でのトラブルなど防いだり、

 解決をしたりする智慧を、学べるものでもあると思っています。

 

 幸福になるための考え方のようなものでしょうか。

 

 その意味で、私たちなども、SNSに出没をしなければ、

 平均値以上の幸せな暮らしが、続いていたのかとも思います。

 

 まぁ、SNSに関わったことで、地獄に堕ちたわけでもないのですが、

 付き合う人たちによっては、心底、残念な気持ちになったり、

 恐ろしく疲れたりと、ありました。

 

 (自分たちが、そう思われたかも?という視点もあります。)

 

 それで、今回は、参考書籍の抜粋を学び直しながら、そんなことを考えてみます。

 

 どうぞ。

 

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 心を癒す ストレス・フリーの幸福論 P62~66

  


 人間関係で悩んでいる人たちに、最初に言っておかなければならないことは「ものの見方」についてです。すなわち、「物事を見るときの見方や感じ方は、本当に人それぞれであり、誰もがまったく同じではない」ということです。そして、ここから人間関係の問題のすべてが始まっているのです。

 これについて、たとえ話を紹介しましょう。

 アメリカで、アルコール中毒の患者たちを更生させる仕事をしている人が、セミナーで次のような実験を行ったそうです。

 その講師は、まず、コップを二つ用意し、片方には真水を入れ、もう片方には、濃度の高いアルコールを入れました。そして、水の入ったコップに、ミミズを一匹入れたところ、ミミズは元気に外へ這い出してきました。

 そのミミズを捕まえて、今度は、アルコールの入ったコップに放り込んだところ、ミミズは、しばらくすると死んでしまったのです。

 そこで、セミナーの講師は、アルコール中毒患者に、「みなさん、どうですか。この実験から何か学ぶことはありますか」と訊きました。
 
 もちろん、その講師は、立場上、「アルコールは、生き物がたちまち死んでしまうほど有害であり、怖い毒物でもあるのだ」ということを印象付ける目的で質問したわけです。

 ところが、患者の一人から、「アルコールを飲めば、お腹のなかの虫を殺せることが分かりました」 という返事が返ってきたのだそうです。

 確かに、そういう考え方もあるでしょう。「ミミズが死ぬぐらいだから、アルコールを飲んでいれば、お腹のなかの虫も死ぬだろう。常にお腹の消毒ができてよい」という考え方もあるわけですね。こういうところから人間関係のすれ違いは起きてくるのです。
 
 人は、同じ事実を見ても、それぞれ、違った解釈をします。特に、手の焼ける人は、エゴイスティックというか、自己中心的に物事を考えるようなタイプです。こういう人との人間関係の調整は困難を極めます。

 アルコール中毒患者の話を笑い話として紹介しましたが、そういう「同じ事実に対して、まったく違う解釈をする人」は現実にいます。したがって、「好意をもって相手に接したとしても、相手がそう受け取らない場合もある」ということを知らなければなりません。

 ただ、「いろいろな見方がある」ということ自体は許容しなければいけません。

 「他の人の見方や感じ方は自分と同じではない。同じ事実に対しても、いろいろな見方がありうるのだ」ということを知らなければいけませんし、それを知ることが、その人自身の認識力の大きさ、あるいは、他人に対する寛容さや包容力につながっていくのです。

 ところが、「自分の見方がすべてであり、それ以外の見方はないのだ」と思いすぎると、人間関係を向上させていくのは極めて難しいと思います。

 

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 以上でした。

 

 私なども、実は、変わった視点を持っていると言われることがあって、

 このミミズの話を読んだときに、そんなには、違和感を感じませんでした。

 

 アルコールは、消毒にもなるので、悪いことばかりでもないかも?と。

 

 まぁ、その事例については、簡単に言えば、その場の空気を読めない人か、

 独特の思考センスが、ある人なのかもしれません。

 

 或いは、高濃度のアルコールの中に、ミミズを投げ込んだら、

 普通、死ぬよね?って、わかっていたので、退屈だったのかもです。

 

 もう少し言えば・・・

 

 周囲の人たちを笑わせようと、あえて、そんな切り返しをされたのかもです。

 

 と、よい意味かは、わかりませんけれど、

 本当は、わかっていて、あえて、変わったことを言う人の気持ちが、

 微妙に理解できなくもないので、そこまでの違和感がなかったという感想でした。

 

 ただ・・・

 

 本文中にもありますように、

 エゴイスティックや、自己中心的な発想が強すぎる人の場合は、

 やはり、人間関係でのトラブル・メーカーになるのかもしれませんし、

 理解はできても、妥協はしたくないかとは、思うようになりました。

 

 うん、事例を書こうと思えば、いくつでも、出てきそうですが、

 ぜんぜん、関係のない話を書いても、

 「自分のことを言われている!」と、勘違いをされるケースもありそうで、

 そこらへんが、何かの事例を書くにも、気を使います。

 

 いや、本当にあった話というか、他人の世間話や、噂話が、

 すべて、自分に関係があると、錯覚をされるような人たちもあって。

 

 ↑ 例えば、この文章を読んでも、「自分のことか!?」と、思う人があるようなのです。

 

 普通、そこは、「気にするところではないでしょ?」と、

 ダルいとは思いながらも、説明をしても、ダメなこともあると。

 

 恐ろしく疲れるというのは、そういうことでもありますか。

 

 あと、少し余談で、質問が多すぎる人も、嫌われると思います。

 自分で考えたり、調べたら、わかりそうなことでも、とにかく、聞いてくる人。

 

 「質問依存症」・・・ みたいな感じ?

 

 もちろん、相手のことを考えて、

 その相手が、より思慮深くなったり、広い視点を持つために、

 善導や教導の動機があって、質問をされる人たちもあるかと思います。

 

 仏教用語で、「禅問答」のようなものでしょうか。

 

 あなたが、どのくらい悟ったのかのテストのようなもの?

 

 そうした話であれば、私も嫌いではないので、

 それなりに、ストレスなく、上手に、付き合えるわけです。

 

 しかし、「質問依存症」みたいなものは、もう、ごめんなさいと言いたいです。

 

 ようは、相手を疲れさせ、嫌われるということは、

 エゴイスティックや、自己中心的な発想が、その原因にあるのかもしれません。

 

 利他 < 利自

 

 相手のためなのか、自分のためなのか。

 

 エゴイスティックや、自己中心的に考え、生きている人たちが、

 他人に好かれるという話は、聞いたことがありませんので、 

 やはり、そのへんの自己客観視は、あったほうがよいかもしれません。

 

 あぁ、SNSなどでの事故を見ていますと、

 何でも、いきなり、というケースがあると思います。

 

 ■ いきなり、挨拶もなく、質問をしてくる。

 

 ■ いきなり、聞かれてもいない、自論を書きまくる。

 

 ■ いきなり、意味不明なコメントをする。

 

 ■ いきなり、反論や文句を書く。

 

 こうしたものは、事故の元かとも思います。

 

 赤の他人というか、自分が知らない相手であれば、

 とりあえず、挨拶からとか、「質問してよいですか?」と、

 アポを取ったほうが、賢いかもしれません。

 

 と、まだ書くつもりでしたけれど、

 用事もあり、今回は、そんなことを考えてみました。

 

 以上です。

 

 ありがとうございました。