ネット・ストーカー問題(21) 「猫熊」 | ホルコンマスターコウの虎視眈々

ネット・ストーカー問題(21) 「猫熊」

 

 こんにちは。

 

 「ネット・ストーカー問題」とのタイトルが、長引いています。

 

 今回は、別のタイトルでもよかったのですが、

 人間対人間の「コミュニケーション事故」というように捉えたときに、

 SNSなどでのトラブルに対しても、カバーができる内容かと思います。

 

 それでは、参考書籍からの抜粋です。

 

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 パングルへの変身 6年後の「パンダ学」 P92~97より

 ”浅い世界”に生きる現代の若者への危惧


  


 大川紫央 (笑) 懐かしの「mixi」とか、「フェイスブック」はもうちょっとあとでしょうか。そういうものがあったと思うのですが、もともと、そういうものをやるのは苦手ではあったのですけれども、「若い人はどんどん”浅いこの世で生きている”のに慣れてしまう」というのが、大丈夫かなとは思って見ています。男女の出会いも、SNSによるものとかも多くなってきているところもあるでしょうし......。

 本を読んだりするよりは、やはり、ケータイでSNSを見たり、あと、自分の名前も顔も出さずに他人に意見を言えたりするではないですか。

 「それは本当に、自分の名前と顔を出して、面と向かって相手の人に伝えられる言葉なのか」というところについては、本当は「名前と顔を出して面と向かっては言えないようなことを、ネットでいっぱい書いている」と思うので、 そういう言葉で溢れ返って、それをたくさん見ている世の中ということになると「人間はこの先どうなっていくのだろうか」という不安はあります。
 

 「YouTube」もありますけれども。まあ、なかにはちゃんとしたものもあるとは思うし、その他のマスコミでは、偏向があったりして取り上げてくれないものが出れる媒体でもあるとは思います。

 当会などもそのおかげで、世の中の人に観てもらえる機会が与えられている面もあるとは思うのですが、やはり以前、ジョン・レノンさんが霊言で言っていたようなことはあって、「本当はプロとしては認定できないような人たちが、勝手にバンバン動画を投稿できたり、いろいろとできるようになっているので、やはり、レベルがすごく落ちているのではないか」というような意見もあったと思うのです(『釈尊の未来予言』参照)。

 実際、そういう面もすごくあるし、時間の無駄で、「なんで、この動画を何十万回、何百万回と観ているのだろう」ということもありま す。また、精査されていない、嘘か本当か分からない情報も溢れています。

 ですから、その世界で生きていて、人間力がどんどん、人類全体として落ちていくようになってしまったときに、本当の危機は来るのではないかとか密かに思っています。

 ――― そうですね。
 
 大川隆法 プロのレベルが低くなりましたね。

 大川紫央 そうですね。 (投稿している動画で)歌を歌ったり、いろいろと番組をつくるかのように意見を言ったりもしていると思うのですけれども、今までは、選ばれた人がテレビに出られたり、本を出せたり、もともと出るまでに「厳しい競争」があってかなり選別された人が世の中に意見を言って、それが人々に影響を与えるということだったと思うんです。

 ところが、今は、民主主義のいい面として、個人が意見を言えるようになったとしても、その悪い反面として、「いい意見か、悪い意見か」とか、「その人自身のこれまでの人生から見て、多くの人に発言していい立場にある人なのか」とか、そういう競争もなく、バンバン意見が言えるようになっているので、 かなりいろんな価値観に左右されて、逆に自分を見失ってしまうような時代にもなっているのかなとは思います。

 大川隆法 そのへん、浅いレベルのものを弾いていく力も必要です。バーンッと弾いて「こんなものは要らない」という感じか、「必要ない」という感じの、パンパンッと弾いていって必要なものをグーッと掘り込んでいくような、そういう勇気は要るでしょう。

 大川紫央 例えば、仕事をする上でも、「幹と枝葉を間違えるパターン」になると、かなり周りにも迷惑がかかったりするし、やはり、「幹と枝葉」を間違え始めると、先ほどの「主と従」の話になるのですけれども、何かどんどん、本当にすべきだった仕事が本筋からズレていってしまう、そういう仕事になってしまうことも多いので、若い人は特にそういうことに気をつけて、頭を鍛え、心を鍛えてほしいと思います。

 そうしないと、”浅い世界”のなかで、ずっと、いろんな情報にパンパン、パンパンと当たって受け取っていると、「どれが重要で、どれが要らないものなのか」とか、「どれが正しくて、どれが間違っているのか」とかがたぶん分からなくなってきて、仕事をするころには、幹と枝葉をそもそも判定できないレベルにまでなってしまう可能性もあるのかなと思うのです。

 ですから、「これから大きくなっていく子たちは大変だな」と思っているところはあります。

 

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 以上です。

 

 それで、私が個人的に参考になったのは、下記の内容です。

 

 『「それは本当に、自分の名前と顔を出して、面と向かって相手の人に伝えられる言葉なのか」というところについては、本当は「名前と顔を出して面と向かっては言えないようなことを、ネットでいっぱい書いている」と思うので、 そういう言葉で溢れ返って、それをたくさん見ている世の中ということになると「人間はこの先どうなっていくのだろうか」という不安はあります。』

 

 『ところが、今は、民主主義のいい面として、個人が意見を言えるようになったとしても、その悪い反面として、「いい意見か、悪い意見か」とか、「その人自身のこれまでの人生から見て、多くの人に発言していい立場にある人なのか」とか、そういう競争もなく、バンバン意見が言えるようになっているので、 かなりいろんな価値観に左右されて、逆に自分を見失ってしまうような時代にもなっているのかなとは思います。』

 

 『そのへん、浅いレベルのものを弾いていく力も必要です。バーンッと弾いて「こんなものは要らない」という感じか、「必要ない」という感じの、パンパンッと弾いていって必要なものをグーッと掘り込んでいくような、そういう勇気は要るでしょう。』

 

 こちらでした。

 

 まぁ、私なりに考えますと、現代のSNSなどの界隈は、

 人間的、道徳的、宗教的な「善悪の分別」ができていないレベルというか、

 ようは、「無責任な発言や書き込み」の割合が多そうなので、

 それによって、惑わされたり、コミュニケーション事故が起きたり、

 ときには、名誉毀損や風評被害のような事例も出てくると。

 

 そうした時代背景にあって、

 レベルの低いものを、弾いていく「勇気」が、必要になってくると。

 

 こちら、総裁先生が、「勇気」という表現を使われていまして、

 個人的には、普通、そこは、SNSなどでの情報であれば、

 物事の真偽を分けるという意味で、

 「経験則」であるとか、「智慧」になるのかと思ったのです。

 

 しかし、「勇気」という表現をされていますので、

 よく、考えてみたら、「すでに、善悪の基準が分かり、分別ができるでしょ?」という前提で、

 次の段階で、「勇気」をもって、分けなさい・・・ という意味かとも思い返しました。

 

 ある意味で、善悪の「善」や「悪」を知ることは、情報だけでもよいわけです。

 

 それが、正しい情報であれば、「善悪の区別」は、できるようになるでしょう。

 

 たとえ「善悪の違い」が、分かっていても、溢れくる情報の海のような世界から、

 「悪」を見抜き、「善」を選び取るには、「勇気」が必要になってくると。

 

 そんな意味かとも思ったしだいです。

 

 さて、けっこうな時点まで、話を戻しまして、

 SNSでの「他人への大量の嫌がらせや、悪評」などを再考したときに、

 私個人は、明らかに、間違いであるし、「悪」だと、今でも思っていますが、

 それすらも、分からなくなってしまっている人たちもあるようで、

 まずは、”その伝達”の必要性も、考えてしまいます。

 

 事実は小説よりも奇なりと。

 

 こうしたこともあるのか・・・

 

 ミソ・クソ一緒が、流行っているのか、知りませんけれど、

 おかしいことは、おかしいと、そこに「勇気」が必要であれば、出してもよいので、

 私たちなりに、伝えて行ければと思っています。

 

 ということで、今回は、幸福の科学の書籍から学んでみました。

 

 以上です。

 

 ありがとうございました。