ネット・ストーカー問題(8) 「遮断」
こんにちは。
札幌も寒くなって、先日から、ストーブを焚くこともありました。
また雪が積もるのかと思えば、寒気もしますが、
何とか、家族や知人のみなさんと、生き延びたいと思っています。
さて、今回のテーマは、「遮断」ということで、
ようは、SNS上などでの他人のアカウントのブロックの話です。
あなたは、ダメだと。
あなたを、遮断しますと。
実のところ、私自身も、ブロックをされていまして、
件数としては、どのくらいでしょうか。
Twitterや、Facebookになりますが、
確認できたのは、5~6件くらいかと思います。
しかも、同じ宗教の信者さんのアカウントです。
それらのアカウントの中には、
挨拶も含めて、一度も絡んだことがない人たちがあって、
なぜ、そうなるのかと不思議でもあります。
そもそも、私自身のポリシーから、
どなたであっても、ブロックはしないと決めているのですが、
一般のみなさんや、宗教アンチのみなさんでも、私をブロックされないのに、
同じ宗教の信者さんの一部が、私をブロックされているのが、謎ではあります。
他の宗教の人たちでも、そうしたことがあるのでしょうか。
まぁ、話を戻したときに・・・
(1) 自分に、問題がある。
(2) 相手に、問題がある。
(3) 自分と相手に、それぞれの問題がある。
たぶん、SNS上でのブロックについて考えるならば、この3種類かとも思うのです。
そこにあって、(2)の相手側に、一方的な問題があると考えてしまうことも、
必ずしも、正しい判断とは違うのかと、考えるものです。
例えば、私個人の経験談では、ブロックなどで、相手を遮断しておいて、
相手の手の届かないところで、その相手の悪口を言いふらす、
という被害のようなものを、受けたことがあります。
この場合、誰かしらの悪口や誹謗中傷をするに当たり、
匿名性のあるアカウントや、安全なところを確保している時点で、
卑怯な人間の行動パターンでもあると思うのですが、
前述をしましたように、誰かに悪口を言われるほうにも、
一定の落ち度があるという考え方です。
■ 匿名性や安全性を担保した悪行は、卑怯な人間の対応?
■ 悪口を言われるほうにも、何かの原因はある?
このように、まとまっているようにも見える、ひとつの物事でも
やや分解をするように見てみますと、動機や結果が違うこともあるので、
ここらへんを、しっかりと分けて考えることも、大事かと思うのです。
また、単純思考と言いますか、悪口を言われるほうに、
大きな原因があると考えすぎてしまいますと、
悪口や悪評、誹謗中傷をする人たちの正当化の方向になります。
悪口を言われて当然だ、というような発想になることも、ときに、ありえそうですが、
誰かに対して意見を伝えたいならば、正しい方法を、選ぶべきかと思います。
つまり、人間として、卑怯な方法は、選ばないと。
私自身、もう何十年も前から、こうした考え方をしていまして、
基本的には、下記のような行為をされる人たちとは、距離を置くようにしています。
(1) ご自身の素性を、隠し通そうとされる人たち。
(2) ブロックや遮断をしながら、その相手への悪口を言われる人たち。
ある意味で、昨年くらいから、よい経験を頂いたなと思うことがあって、
自分としては、例外的なことでしたが、結果的には、同じ結論になりました。
やはり、正々堂々と、自分を名乗れない人たちで、尊敬できる人たちは、いないように考えます。
(もちろん、本名などで悪事や犯罪を繰り返すような人たちもあるでしょうから、
人間付き合いの最低限度の礼儀のようなものでしょうか。)
そして、SNS上などでのブロック論については、止むを得ないケースを除き、
基本的には、相手を遮断しないほうがよいかとも思います。
あぁ、宗教的には、どうなのでしょう。
誰かを遮断することは、巡り巡って、自分自身や、
自分が大切だと思う人たちも、遮断する方向になるのかもです。
「否定からは、肯定は生まれない」という言葉もあります。
(一元的な意味かと思う。)
「遮断からは、他人との心の開通や、連帯も生まれない」・・・ かもしれません。
ただ、個人論として、おぞましく、しつこい、
ネット・ストーカーのような人があったときに、
それは、それで、一定の遮断をしたり、刑法的なカウンターを打ったりと、
そうした対応も、必要になることはあるかと思います。
私自身も、何例目になるのかすら忘れましたけれど、
よい経験ではあるかなとは、思っています。
ということで、今回は、以上です。
ありがとうございました。