【主の路程】 文鮮明 賭博王への道(幼少編) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■【主の路程】 文鮮明 賭博王への道(幼少編)

・賭博デビューは8才
・12才で賭博の選手
・父親の牛の売却代金を賭博に使う


『私はそれ(賭博)をよく知っているのです。
先生は八歳から賭博王でした。賭博場の王(博打王)でした。(賭博に関して)知らないことはありません。朝に賭博をする下準備をしてですね、まだ子供だからある家に行って「○○のお父さんいますか?」と信号を送るのです。 (賭博に誘うときは)トントンと家の門を二回たたくという約束になっているんです。家の門をたたいたら「(賭博しに)出かけよう」ということです。(村中の)家ごとに全部私の話を聞いてよく集まりました。(笑)
このような話をすると、先生の底が知れるというのです。これからはこういうことが露わになっても、ならなくても、全て売り払ってきれいに掃除してしまわなければいけません。そうしたら(みなさんを)集めてゆっくり(カジノに)案内することにします。だから口に蓋(口栓)をすることができないのです。わかりますか? お金がなくても博打の場を仕切ることができます。そして必ず、(私の)父に話をするんです。「牛を売って牛の代金を私にください。」と。しかし、もし(父が)お金をくれなければ、(お金がどこにあるか)家中を探すのです。私が知らないことはありません。毎日のように(両親のタンスの)引き出しを探るんですよ。何がどこに入っているか、という具合にです。ですから私が知らないことがないのです。
家のネズミだのイタチだの全て捕まえてみるのです。猫の子も捕まえて動物の体はどうなっているのか、生殖器がどういうふうになっているか見るのです。そのような観察をたくさんしてみました。このような話をするとは。私も話をしてみたら舌があまり遊ばないというのです。でも教えなければなりません。そうやって統一教会教祖が神の息子になった歴史の話をして、そのような位置でそれを正す内容をする必要があるのです。』

(「文鮮明先生み言葉選集」308巻より)


パチンコを一回やってみた、フロリダのホテルで。一つパチンコをやってみた。しかし先生は、十二、三才まではバクチの選手だった。よくやった、これは男の気質に合う。全ての一晩もうけた金でもいっぺんになくなってしまったあとの気持ち、ムッスリした姿、男として体験すべきだよ。だからといってあんた方、それをやれ、と言うんではない。しかし、負けて負けて、もと返さねばならない希望の心というものは、男としては実にすばらしいものだよ。そういう体験もしたことがある。それもやったら負けるという思いでやったらすぐ交替する。やり方が非常におもしろいんだ、けれども勝てなくて、結局周囲にはマイナスになるんだということをはっきりわかった場合にはやるとしてもやらない。宇宙の原則である。』
(神様と我々(絶頂を越えよ!)1972年5月6日東京・狭山湖)


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<ギャンブル観>
今、先生もそう思っているのです。今ではすべて上がってきたので、良い家でゆっくり昼寝したり酒を飲んだり...。私がお酒を飲むことを学んで、24時間、酒樽をおいて、パイプ(タバコ)を吸って、飲んで一度酔ってみたらいいのです。それで食べながら小便もして。そういう人たちがいるので、それを蕩減復帰するために、私はそのようなことを一度しなければいけません。私が天上の高い所に上がるときは、そのような者たちを許してあげるために、(私が)一度そのよう(賭博・酒・タバコ等)にようにしなければいけないのです。(笑)蕩減復帰がそうでしょう?

私はここに来る前にあのアトランタ賭博場に日本人を三人、アメリカ人を三人、韓国人を三人連れて、すべて祈祷して万歳を叫びました。この地を私が触れるときは、平和の基地となるというのです。そこ(カジノ)に行かなかった人はいますか? 皆さんそこ(カジノ)に行ってみましたか? そこに行ってみた人、賭博場(カジノ)に行ってみた人は手を挙げてみてください。年齢の高い者たちは、みんな行ったようだな。(カジノの)お金は誰がくれましたか? 皆さんのお金を持って行きましたか、それとも私(文教祖)があげましたか? (「お父様がくれました」)私が(賭博資金を)与えたのだから、その賭博場(カジノ)は悪い賭博場ですか、良い賭博場ですか?(笑)

蕩減条件を立てるためにそのようにしたのです。なんとまあ、教祖がギャンブルするようにお金を与えるとは?(笑)それは亡国の教組です。しかしそうではありません。蕩減法は、血を流さなければなりません。否定です。そこに行って否定するのです。そのため、私はラスベガスに対して精通しているのです。背後に何が起こっていることか全部知っています。アトランタ賭博場にも時々行くのです。行きますが絶対に座りません。座らずに後ろに立って、ギャンブルする人の後ろから「おい、たくさん賭けろ!少し賭けろ!」とコーチします。 「君、たくさん賭ければお金が入って来る。たくさん賭けてみろ!」と言ったら、ブラックジャックが出てくるのです。何の話かわかりますか?

私が精神を集中して30分だけやってみるならば3万ドル勝つのは問題ありません。(笑)なぜ笑うのですか? 私が訓戒(※カジノでの指示)するのを見守っていた人は知っています。間違いないからたくさん賭けなさい、嫌だと言っても賭けなさいというと、すぐに出てきます。ブラックジャックでなければ20点出ます。 19点、18点以上出るのです。 18点以上であれば80%は勝てるのです。時々向こうから21点が出れば奪われるかもしれませんが。

そのような(賭博の)素質があるので、私は12歳の時、賭博場に通いながらチッコテン(花札ゲームの一種)はすべて勝ちました。(笑)三勝負だけやれば最後の勝負には勝ってしまいます。一回勝負をやれば、その当時のお金で120円勝つのです。日本帝国主義の時代に120円であれば、大金です。その当時、大学の学生たち一年分の学費が80円から120円でした。一晩でうまくうけば、一年分の学費が稼げるのです。それを三回だけやれば...。

その当時、牛一頭が70円、80円しました。米一斗は1円10銭でした。わかりますか?倭政(併合時代)のときはそうだったのです。ユン博士も知っているようですね。それ実感できるでしょ?そんな時代なのに、もうコイツたちは、父親にもらったお金を持って、みんな何をするかといえば賭け事(博打)をします。名節の時、大みそかと正月十五日は、村中の賭博場の全盛期です。家ごとに巡査が来て見ても捕まえもしません。

そんなのには私は精通しているのです。私が(賭博場)を訪れて、下のやつが行って勝負を見て、この勝負は勝ち目が無いと思えば、裏に行って寝るのです。寝て、夜明けに起きてぴったり三勝負だけするのです。当たるのです。私が勝つといえば、間違いなく勝つのです。

父が牛を売ってタバコ入れに包んでタンスに入れておいたお金を取り出して、その遊び(賭博)をするのです。タンスですよね?平安道に行けば「ノン(タンス)」というものがあります。ここ南部地方にはありません。もし父のお金が消えていれば、私が持ち出して使ったと思ってください、そのお金で悪いことは絶対しないと、間違ったことに使えば、私が責任を取ると(父に)通告したのです。

それで牛を売ったお金を取り出して、(父に)「お金を貸して下さい! 牛一頭の代金を貸して下さい!」といって、持って行っては全部勝って帰るのです。私が小さいからといってどこの誰も、殴って(勝負で勝った)そのお金を奪えませんでした。そんな時は雷が落ちるのです。(私は)わき腹をナイフで刺すといえば、刺すのです。(周りの者は)私が言ったとおりにする人であることを知っています。だから(私を)怖がっていたのです。


そうです、お金を持って大晦日、正月元旦には、あちこち、私の村だけでなく、となり村の子供たちまで集まって、子供たちはめんこ、ビー玉当て遊び、銭当て遊びが好きなので、ひと包みずつ食べなさいといってあげるのです。

<定州での子供時代の逸話>
また、夏になるとマクワ瓜が食べたいのです。ところが夏には賭博をしません。ですから「おい、私が責任とるから!」といって...。私の叔父の家、分家があるのです。文龍基長老がいますよね? その叔父の奥さん(叔母)が番小屋でマクワ瓜を売っていました。そうだ、一度、叔父のところに行って、「叔父さん!私はマクワ瓜が数百個が必要なのですがおごりますか、おごりませんか?」と予告するのです。

それで叔父が「うちのマクワ瓜畑に数百個も収穫できる分があったっけ?」というのです。それで「とにかく、私はそれが必要なんです」というのです。そうやって話をしておいて、友達たちに「おい、お前たちは大きな袋をひとつずつ担いで何時に集まれ!」というのです。その時間は、おぼろ月夜でしょう。それで「私はそっと番小屋に上がって、叔父と楽しく長く話をするのでお前たちは、その時間に(畑に)入って根こそぎ引っこ抜け」というのです。(笑)

村の子供たちに小銭をもらってマクワ瓜を売るのを見るのが嫌なのです。またそうならなければならないのです。特別な方法がありますか? そうして約10メートル来れば萩の木が生い茂っているところがあるのですが、その真ん中に放り投げろというのです。そうしておいて食べたいときに、その裏道にこっそり行って、大袋から取り出して思う存分食べろというのです。そうやって、そのかわいそうな者たちを食べさせてやるのです。

それを誰がやったか叔父は全部知っているでしょう。それを誰がやったか叔父は全部知っているでしょう。それで、朝起きてどうなのかと思って、そっとたずねて行って「叔母さん、昨日の夜に何か知らせはありませんでしたか?」と聞くのです。そうしたら「えいっ!こいつめ!お前がやったのは全部わかっている。こいつめ。弦(つる)を何で抜くのか(※根まで抜くのか)、(ひとつずつ)もいで取るだけにしておけばいいのに?」と叔母がいうのです。それで(私は)「バレたら一つも取れないのに、数百個を取らなければならないのに、どうやってそれを選んで取るのですか?」というのです。 (笑)

(「選集204巻」より 為に生きる人生を通して氏族メシアの使命完遂 1990年7月11日 韓国国際研修院)

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この内容が「真の御父母様の生涯路程1」にも載っていますが、どうみても「選集204巻」の内容ですが、訳がおかしいのです。改ざんしてます。(赤字部分)
「ところで叔父は欲が深かったのです。」とは書いていませんでした。
意図的になにも悪くない叔父が欲深で、マクワ瓜を盗む文教祖を正義のヒーローにするために改ざんしたようです。
真相は、夏には村では賭博をやらないので、賭博で稼いで友達におごることが出来ないから、叔父の畑からマクワ瓜を盗んで友達に食べさせたということなのですが。
父親からは賭博のため金を盗み、叔父の畑からもマクワ瓜を盗む・・・そんな子供。

『私は数えの十二歳の時、賭博場に通ってチッコテン(注・花札などでする賭博の一つ)を全部せしめたのです。三局すれば、最後の局に取ってしまいます。一局すれば、その時のお金で百二十円を取るのです。日本帝国主義時代の百二十円ならば、大きいお金です。その時の大学生たちの一年の学費が、八十円から百二十円でした。その時、牛一匹が七十円から八十円でした。米一斗は一円十銭でした。

 この人たちは、父親からもらったお金で何をするのかというと、賭事をするのです。名節の時や、十二月の大晦日と正月の十五日は、近所の賭博場の全盛期です。家ごとに巡査が来て、それを見ても捕まえません。そのようなところに、私は明るいのです。小さい私が尋ねていき、場を見て具合が悪ければ、後ろに行って寝るのです。そして、明け方に起きて、三度だけするのです。「賭けなさい」と言うのです。「私が勝つ」と言えば、間違いなく勝つのです。

 それで、私は村のかわいそうな貧乏人の子供たちのために、博打でお金をもうけて、水飴を瓶のまま買い、「お前も食べていけ、お前も食べていけ」と、みんなが食べることができるようにしてあげました。悪いことはしませんでした。

 ところで叔父は欲が深かったのです。村の子供たちが行ったり来たりする道に、まくわうり畑がありましたが、毎日このまくわうりのにおいのためにみな気も狂わんばかりでした。しかし、番小屋を道端に造って見張っていて、一つもくれないのです。それで私はある日、「まくわうりを食べてみたい子供たちは、全部布の袋を持って、いついつに来い!」と言いました。夜十二時ごろになって、「一畝ずつ全部抜き取れ」と言いました。「このようにして萩の畑に持っていって積んでおき、何時に来て食べて行け」と言えば、朝早くから来て思いきり食べて行くのです。そうして、大騒ぎになりました。いくら考えても、甥の私しかいませんからね。「私がしました。叔父さん! 食べたがる人々に、時折まくわうり一個ずつあげるべきですか、絶対あげてはなりませんか」と言うと、「あげるべきだろう」と言うのです。』

(「真の御父母様の生涯路程1」より)

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自叙伝にいたっては、親戚の叔父さん(父の弟)が完全に強欲おやじの悪者にし立て上げられています。知らない人でもなく、最も近い親戚です。韓国では叔父は家族同然なのです。
文教祖は叔父に断って取ったのではなく、「数百個が必要なんだけど、おごってくれますか」と叔父に告げただけです。叔父は「取っていい」と言っていないのです。
それを自叙伝では「叔父が取っていいと言った」と捏造(創作)して書いています。
(それとも別に文教祖が事実を曲げて、嘘で脚色して作り変えたみ言葉があるのか? それとも弟子が「神格化」するために書き換えたのか?)
それにマクワ瓜事件の次の日に会ったのは叔父ではなく、叔母です。

<文鮮明自叙伝「平和を愛する世界人として」より>

『村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。

次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。』





※これがみ言葉だとは。訳していて虚しくなってきた。ため息しか出ない。ただの博打うちの話。



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