【捏造教会史】1962年に文教祖が訪米しロックフェラーに会ったことは本当だった | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■最初の訪米は1965年ではなく1962年だった

今まで教会史では、最初の訪米は1962年ではなく1965年となっていました。
どこにも1962年に訪米という記載はありません。
隠蔽されてきたのです。
なぜ隠蔽したか...それは韓国CIAとの関係を隠すためでした。

『皆さんもいろいろと聞いているでしょうが、レバレント・ムーンはKCIAと結託して国を動かそうとしているとか、さまざまなうわさが流れています。しかし皆さんはそんなことにまどわされてはなりません。』
(救援の公式と伝統 1976年10月10日 ベルベディア)

『ところが、韓国大使館では「あー、レバレンド・ムーンは政治的に何がどうだ」と言い、アメリカのCIAでは、「全部KCIAの手先だ」とか言ったりするのです。これまで共産党はそのような宣伝で攻撃をしてきたのです。私が何で大韓民国情報部の手先ですか。私は彼らに会ってみたこともないのです。
(「真の御父母様の生涯路程5」第六節 一九七三年 統一戦線守護(二))


しかしスプリングマイヤーの著書にあった『1962年に文教祖が訪米した』という内容を文教祖のみ言葉でも確認する事ができました。

まずF・スプリングマイヤー著「蛇の如く狡猾に」より文教祖の訪米の記述です。

『韓国政府はロックフェラーの銀行であるチェース・マンハッタン銀行を取引先に指定した。1962年10月、米国政府は同銀行の助言に従って、韓国諜報機関であるKCIA(韓国中央情報局)の局長に金鍾泌を就任させた。1962年10月、いわばCIAの出先機関であるKCIA(韓国中央情報局)の金局長が訪米した。その際に同行したのが文鮮明だった。金と文はCIAのジョン・マッコーン並びにキャロル陸軍中将と会談するのが目的だったが、この訪米でネルソン&ディヴィッド・ロックフェラーと会った。文鮮明とネルソン・ロックフェラーは、ぜひ自分達の目で世界統一政府実現を見届けたいと、たちまち意気投合した。
 スプリングマイヤーによると、第2次世界大戦直後にロックフェラーは日本で密かにかなりの株式(又は資金)を保有していたが、その日本セクターが隠密裡に文鮮明に資金援助する事を決定したという。彼の反共十字軍は、「ロックフェラーの新世界秩序に反対する日本の愛国的保守勢力を骨抜きにする」事を使命にして動き出した。これが勝共連合だった。
 スプリングマイヤーは、ロックフェラーと仕事をしている弁護士が自信をもって語った事を次の様に紹介している。
「ディヴィッド&ネルソン・ロックフェラーは、熱狂的なグローバリストだ。文鮮明だって、そうだ。統一協会の目的は、ロックフェラーが世界各国をがんじがらめにしようとしている国際的なタガを、基督教にはめ込んでしまおうというのだから。このゴールに到達する為には、チェース・マンハッタンの連中は、いわゆる共和党右翼と呼ばれる愛国者達を骨抜きにしなくちゃならんのだ。よく見てご覧なさい。文鮮明がやっている事は、それなんだよ」 』

(F・スプリングマイヤー著「蛇の如く狡猾に」1991年出版)

上記からロックフェラー=アメリカ共和党=米国CIA=韓国CIA(韓国政府)だということが読み取れます。(注:ジェイ・ロックフェラー4世は民主党ですが)

その関係で1962年に文教祖はKCIA局長の金鍾泌と訪米しています。
この訪米によって、文教祖ははっきりと米国CIAと手を組んだわけです。

文教祖は韓国政府の保護の下、訪米できたと述べています。
それ以前の1959年にはアメリカに宣教師も派遣し、60年、61年には信者で36家庭の朴普煕や韓相吉は駐米韓国大使館の武官として訪米しており、同じく36家庭の韓相国は朴正煕大統領の側近で通訳を担当し、金相仁は金鍾泌局長の秘書としてそれぞれの役割を担い、文教祖の訪米の下準備をします。


(朴正煕大統領の通訳をする36家庭の韓相国)


(1961年に33双祝福式に参加する韓相国)


(1961年2月25日アメリカの韓国大使館に赴任する朴普煕を空港で見送る文教祖。左から朴普煕(36家庭)・文鮮明教祖・朴普煕夫人の尹基淑・崔元福・金元弼(36家庭)・右端は劉孝元(36家庭))


(左から二番目は朴普煕、Willis S.Matthews少尉(中央)と韓国軍事アドバイザーグループ)


では文教祖のみ言葉です。

『もともとは私がアメリカのビザを取得したのが1962年です。』
(「文鮮明先生み言葉選集」338巻より)

『もともと1962年に先生は米国に行けるパスポートをすべて準備したのです。』
(「文鮮明先生み言葉選集」464巻より)

『私が韓国を出るとき何を考えてたのか知っていますか? 皆さんは知らないでしょう。・・・私はアメリカに行くという話もしなかったのです。知りません。誰も知りません。私一人です。(※誰にも告げず極秘で渡米した)それをするために朴奉愛さんが犠牲になりました。お母様はそれを知らなくてはいけません。自由党と民主党が戦うときです。1960年です。民主党の朴スンチョンの二番目です。朴スンチョンの弟です。それを奪って来ました。だから自由党を丸め込んだのです。それで自由党の党の命令で、米国に行くパスポートをすべて受領しました。 1962年に米国に行けるようにしたのです。行けば自由党を通して、大使館を通して、約束の下で行くことになっています。』
(「文鮮明先生み言葉選集」351巻より)

『よく考えてみると、1962年に米国に行けるように共和党の閣僚から、大統領の承認を受けて大使館を通し懐に抱かれて行けるようビザまですべて出したのです。韓大使(韓相国)は知らないだろう? それ知ってる? 1962年に米国に行くことができたのを。そのビザが今でもあるのです。』
(「文鮮明先生み言葉選集」457巻より)

大使館と党幹部と大統領の許可を受けて文総裁を1962年に大使館の極秘保護下で米国に行けるように許可しました。そんな話ははじめて聞くでしょう?』
(「文鮮明先生み言葉選集」470巻より)

『1962年に共和党政府が・・・李承晩博士政府が文総裁が必要であると、米国に行けるように外務省を通じて、大使館を通じて特命で特別ビザをすべて持っていました。どこに行っても全部大使館が案内することができるビザを持って・・・』
(「文鮮明先生み言葉選集」452巻より)

『もともと先生は1962年に国の保証を受けてここに来て、永住権を持って、永住権ではなく市民権を得て持って働くことができるように韓国政府がすべて準備をしたのです。』
(「文鮮明先生み言葉選集」473巻より)

『1962年に私は国家大使館大使を介して、案内を受けて、米国の高位層を伝道することができるように、その前にすでにリトルエンジェルスを各大学巡回公演をすべて用意しました。』
(「文鮮明先生み言葉選集」473巻より)


この文教祖の1962年の訪米を可能にしたのは、1957年に入教した在韓米軍の軍人(朴普煕・韓相国・韓相吉等)たちを通して、クーデター軍事政権である朴正煕政権と親密な関係を築くことが出来たためです。
この36家庭の駐韓米軍軍人たちは大使館武官や大使に就任し、韓国政府と文教祖の間を取り持つのに貢献したのです。

アメリカの報告書でも述べられています。

『米軍のパイロットのロバート・ローランド(Robert Roland)朴普熙氏とは友人関係にありましたが。ローランド氏は「朴普熙氏の軍事顧問補佐としての職務は韓国とアメリカの情報機関の間の連絡を橋渡しする担当であり、しばしばメリーランドのフォート・メードにある極秘のNSAを訪れていた」と証言しています。』
(フレーザー委員会報告書より)

『朴普煕は元韓国軍の諜報部員。金鍾泌も同じで、両者の関係は、軍の階級の違いはあっても任務においては同列である。他の三人についてフレーザー委員会の報告書はこう記している。
「1950年代末以来の文の支持者の一人韓相国(別名ブド・ハン)は、1961年のクーデターの首謀者でKCIAの創立者である金鍾泌の個人的な補佐となった。金相仁(スチーブ・キム)は、1961年5月に韓国陸軍から退職し、KCIAに加わり、金鍾泌の通訳となった。彼は1966年に至るまで、引き続いて金鍾泌の親しい個人的側近であった。1966年に彼はKCIA職員の地位に復帰し、その後メキシコ・シティのKCIA支局長となった。彼(金相仁)は朴普煕の親友で、統一教会の支持者であった。四人目の韓相吉は、1960年代末には、ワシントンの韓国大使館付武官であった。行政府の諸報告はまた、彼をKCIAと結びつけている」』

(萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」晩聲社))

1962年に米国CIA長官やロックフェラー謁見したあと、1965年には共和党のアイゼンハワー元大統領と会談しに再び、訪米します。


(1965年6月25日アイゼンハワー元大統領と会談する文教祖)

というように統一教会とは宗教の皮をかぶった政治結社と言っても過言ではないでしょう。
世界を恐怖と搾取するアメリカの世界エリート支配層たちと共謀し、日本だけでなく、最終的には選民だといっていた韓国までもアメリカに売り飛ばそうとしています。
(日本も同様に「ロックフェラー様」に売り渡すための政界工作、さらに信者には献金で搾取、自虐史観洗脳されます)

『アメリカを操ってアメリカの属国を作り、アメリカの一つの州を作らなければいけません。そうすれば(韓国は)生き残れます。わかりますか、何を言ってるか? うん?(「はい」) アメリカは50州ではなく(韓国を入れると)51州になります。そうして北朝鮮も引き入れて(アメリカの)52番目の州になるのです。』
(「文鮮明先生み言葉選集」335巻より)

『すでにこの韓国を中心として、中国が韓国を自分の一つの省にするでしょう。アメリカは中国が(韓国を中国の)省として作る前に、韓国の地を(アメリカの)50州を越えて51番目の州に作るために、(韓国を)代表州として作ってアメリカが韓国に移って来れば天下を統一すると見るのです。
・・・(韓国とアメリカが)別れないようにするためにシコルスキー工場を引き込んだのです。わかりますか? どのようなお金よりも、韓国を助けるお金よりも、ここ全体のアメリカの会社と、韓半島がアメリカの51番目の州になったら51の後天時代を占領することができる、このような基盤を失ってしまうので、そのような考えをしているのです。』

(「文鮮明先生み言葉選集」486巻より)




文教祖が梨花女子大事件で逮捕された三ヶ月間に、釈放する代わりに韓国政府と裏取引があったとされています。
以下は資料としてお読みください。

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<姦通事件不起訴の理由>
(中略)いくら混淫血分け集団が自ら教義を神聖な教義だといってみても世間はそう甘くはない。破廉恥な事件が明るみに出ると同時に、彼らの集団は衰退か崩壊の道をたどるのが常であった。1930年代から40年代の中ごろまで隆盛をほこった(混淫血分け集団の)李龍道や黄国柱らがその例である。文鮮明一派もこれと同じ運命の岐路に立たされたわけだ。生き延びる道は権力に迎合し、その言いなりになるしかない。

<密室の取引き>
 一方、権力の側も、文がこれまでの混淫・血分け派の教祖にない、強烈な反共意識に燃えていることに注目した。文は、「北」で二度投獄され、共産党や共産主義への恨みは骨髄に達している。韓国の軍事政権の国是は反共であり、反共によって政権維持を図っているといっても過言ではない。そうした政権にとって、強烈な反共意識を持った文鮮明は、いわば「使えるタマ」であった。
 彼の有益性に着目したのは、おそらくKCIAの生みの親である軍の諜報機関CIC(陸軍保安司令部)であろう。1955年7月4日の文の逮捕から10月4日の「無罪」釈放までの三ヶ月間は、密室の中で極めて政治的な取引きがおこなわれたとみられる。そうした取引きの存在をうかがわせるものが文鮮明の釈放後にいくつか浮かびあがってくる。韓国軍の若手の将校、しかも諜報関係のそれが相次ぎこの組織に加入してくるのである。破廉恥な事件をめぐって噂が渦まく問題の組織に、お固い軍人の入会とは、なんとも不自然な取り合わせである。


<KCIAとの接着剤>
 統一協会に相次ぎ加入してきたその軍人達は四人。一人はのちのアメリカの統一協会の最高責任者であり、また文鮮明に次ぐ統一協会ナンバー2といわれる朴普煕。れっきとしたKCIAの要員といわれている。
 他の三人は韓相国、金相仁、韓相吉。全員がのちにKCIAの要職につく人物である。
これを明らかにしたのは米下院外交委員会国際機構小委員会、別名フレーザー委員会。1976年から78年末まで、統一協会および韓国政府らによるアメリカでの違法な議会工作を調査した膨大な報告書「韓米関係の調査」のなかである。報告書はいう。
「1950年代末に、四人の英語を話す韓国陸軍の青年将校が、文鮮明のお告げを好意的に受け入れた。のちにこれらの将校はすべて1961年以降の韓国政府との重要なコネを提供することになる」
同報告書は、四人の将校の入会を1950年代末としており、正確な年を書いていないが、1955年7月の文の破廉恥な事件による逮捕のあとであることは確かである。
 1961年5月には、よく知られているように朴正煕や金鍾泌ら韓国軍内の諜報部門にいた軍人達を中心にクーデターがおこり、朴軍事政権が出現する。軍事政権の支えは、このクーデターの一ヶ月後に軍の諜報機関であるCICのメンバーを中心に創設された韓国中央情報部、すなわちKCIAであり、その初代長官が金鍾泌であった。この権力の中枢にさきの四人(朴普煕、韓相国、金相仁、韓相吉)が深い関係を持ち、統一協会とKCIA=朴政権を結びつける接着剤の役割を果たすのである。
 朴普煕は元韓国軍の諜報部員。金鍾泌も同じで、両者の関係は、軍の階級の違いはあっても任務においては同列である。
他の三人についてフレーザー委員会の報告書はこう記している。
「1950年代末以来の文の支持者の一人韓相国(別名ブド・ハン)は、1961年のクーデターの首謀者でKCIAの創立者である金鍾泌の個人的な補佐となった。金相仁(スチーブ・キム)は、1961年5月に韓国陸軍から退職し、KCIAに加わり、金鍾泌の通訳となった。彼は1966年に至るまで、引き続いて金鍾泌の親しい個人的側近であった。1966年に彼はKCIA職員の地位に復帰し、その後メキシコ・シティのKCIA支局長となった。彼(金相仁)は朴普煕の親友で、統一教会の支持者であった。四人目の韓相吉は、1960年代末には、ワシントンの韓国大使館付武官であった。行政府の諸報告はまた、彼をKCIAと結びつけている」
 四人が四人ともKCIAのメンバーであり、かつ50年代末に相次ぎ統一協会に加入してきたのである。この四人をパイプにして「朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政権との良好な連絡をもつようになった」とフレーザー委員会報告書は指摘する。

(萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」(晩聲社)より)
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※初回掲載日 2015年02月13日 16時15分09秒


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