文鮮明教祖の家は奴隷容認だった | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■文教祖は「母が嫁に来たとき三人の僕(奴隷)を連れてきた両班だ」と信者に自慢した

日本が朝鮮半島を統治・併合するまで、韓国の奴隷身分は解放されることはありませんでした。

文教祖の実家がどんなに人情に厚い家系だといっても、奴隷制度は否定していなかったようです。文教祖の父母が結婚した1908年ごろまでは、朝鮮では奴隷は当たり前にいました。
その後、1923年から日本は朝鮮に戸籍制度を導入し「奴隷、両班関係なく一人一戸籍」とし、奴隷戸籍の廃止を実現しました。
併合前の李氏朝鮮時代まで奴隷は貴族である主人が売買できる「商品」でした。

文教祖のみ言葉でも

『(嫁入り道具として)母が嫁に来るときに下女3人を連れて来ました。そして田んぼを3千坪を持ってきたのです。それほど大家であった先生の家だったのです。』
(「文鮮明先生御言選集」434巻)

『私の母は女傑なのですが舅の前では孝行娘なのです。実家が両班の家です。嫁に来たときに使用人の僕(下女)を3人連れてきた人です。また3千坪以上の土地まで持って嫁いできた人ですよ。有名な家なのです。』
(「文鮮明先生御言選集」447巻)

母が嫁いで来たとき僕(下女)を3人ずつ連れてきて、土地を3千坪持ってきて(その土地で)生活しました。名門の家門です。』
(「文鮮明先生御言選集」450巻)

『私の母は虎のような女丈夫(女傑)なのですが、名のある両班の長女として生まれ、嫁に来たときは3千坪の田んぼも持ってきて、3人の下女まで連れて嫁いできた人です。
(「文鮮明先生御言選集」451巻)

私の母親も、嫁いでくる時には、三千坪の土地を中心として、三人の僕を連れて嫁いできたので、悪い人ではありません。両班の中の両班です。』
(「後天時代と真の愛の絶対価値」より 第六回「安侍日」 2004年6月14日 麗水・清海ガーデン)

救世主を名乗る人類の真の父母が、なんで家に奴隷がいたことを自慢するんですか!

文教祖は両班やエリート出身の信者に馬鹿にされないために自分の出自が両班だと見栄を張るために、このようなことを語ったとも考えられますが・・・。
反面「自分は哀れな農家の息子」だとも語っていることみてもわかります。
((※訂正)以前、日本語訳はないと書きましたが、一つだけありました)


<文教祖の母 金慶継>
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<併合前、1897年ごろ李氏朝鮮末期(大韓帝国)の光武戸籍>
・女性は名前の記載なし(姓と年齢のみ)
・奴隷(奴婢)の記載も見られる
・使用人(雇男、傭女)の欄あり
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(大韓帝国(朝鮮末期)時代になっても、完全には奴隷は解放されなかったようです)


<朝鮮時代末期に韓国の農民は奴婢文書(奴隷戸籍)の廃棄・焼却を要求して反乱を起こしている>
・1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)
弊政改革12条の要求
1. 東学徒は政府との怨恨を水に流し、庶政に協力する。
2. 貧官汚吏はその罪状を調査し厳重に処罰する。
3. 横暴な富豪を厳重に処罰する。
4. 不良な儒林と両班などを懲罰する。
5. 奴婢文書を焼却する。
6. 7種の賎人差別を改善し、白丁がかぶる平涼笠は廃止する。

7. 青孀寡婦の再婚を許容する。
8. 名分のない雑税は一切廃止する。
9. 官吏採用には地閥を打破し、人材を登用する。
10. 倭と通ずる者は厳重に処罰する。
11. 公私の債務はもちろん、既存のものを無効にする。
12. 土地は平均して分作する。
(呉知亨永「束学史」)



<併合後も日本が1923年戸籍制度改革するまで韓国人の両班は奴隷売買を続けていた>
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↑上記1921年(大正10年)の朝鮮人による奴隷売買文書



<1919年 パリで日本が人種的差別撤廃提案> 
第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。



<1923年日本人が韓国の奴隷を解放した (奴隷(奴婢)戸籍の廃止)>
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 まず日本政府、総督府は何をしたのか、戸籍を編成したのである。朝鮮半島の村(面という)によっては人口の半分近くを占める奴婢身分には「戸籍」は無かったが、総督府は戸籍を認めた。このとき多くの日本人名が誕生した。堤防工事で奴婢が住んでいた河川敷の多くが農地になった。
 1911年246万町歩の水田は20年後の1932年には449万町歩に倍増した。日本人地主も増えたが、新たに日本人式の名前になったもと奴婢身分の地主も増加した。そこは彼らの住所地だったのである。奴婢身分であった人々の多くは、日本人式の名前を申請して総督府は受理している。
 学校教育については総督府の当初1905年には朝鮮全土で4校にしかすぎなかった小学校は、一面(一村)一校を目標に設置が進められ、1923年には2500面で整備され、1936年には全面(全村)に小学校が整備された。小学校ではハングルが教えられた。
 「日帝三十六年」のうちに韓国内でどんな変化が起こっていただろうか。
 980万人の人口は2500万人に増加していた。平均寿命は24歳から48歳に延びて、日本人の平均寿命とほぼ同じになっていた。小学校が全部の村に設置された。
 小学校教育を通して、ハングルが普及した。両班や奴婢の身分差別が禁止された。科挙が廃止された。破瓜の歳(十六歳)未満の女子のキーセン(売春)が禁止された。

(若狭和朋著「日本人が知ってはならない歴史」より)
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■韓国李氏朝鮮時代の奴隷狩りのドラマ「推奴」(KBSにて放映)
李氏朝鮮時代1648年が舞台。
両班である主人の家から逃亡した奴隷(奴婢)を追跡して捕まえては懸賞金を狙うハンターを推奴師と呼んでいたようです。
奴隷は貴族である主人が売買できる「商品」ですので、もちろん人権も無く一生奴隷であり、その子供も奴隷です。

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※初回更新日 2013-07-17 17:29:53
※一部修正


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(参照:【犯罪隠蔽工作か】統一教会の名称変更を文化庁が認証「世界平和統一家庭連合」に
統一教会の名称変更に政治家の影?