真の家庭情報(7) | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■文氏の由来と本貫

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< 남평 문씨 >
◎문씨(文氏)의 유래와 본관

문씨는 《조선씨족통보(朝鮮氏族統譜)》와 《증보문헌비고(增補文獻備考)》등의 문헌에 남평(南平), 단성(丹城), 영산(靈山), 보령(保寧), 감천(甘泉:안동속현), 정선(旌善), 결성(結城), 개령(開寧), 강릉(江陵) 등을 포함하여 156본이 있는 것으로 기록되어 있으나, 감천(甘泉)과 정선(旌善)을 제의한 본관은 모두가 남평(南平)에서 유래한 것이다.
남평 문씨는 신라 자비왕 때의 다성(多省)이 문씨의 성을 받아 시조가 되었으며, 감천 문씨의 시조 문원길(文原吉)은 본래 김알지(金閼智)의 후손으로, 그의 선조 중 한사람이 중국에 들어갔다가 문장으로 이름을 날려 문씨의 성을 받았다고 한다.

또한 정선 문씨의 시조 문임간(文林幹:일명 문작)은 본래 전씨(全氏)였는데, 역시 중국에서 문명(文名)을 날림으로써 문씨의 성을 받았다고 한다.

문씨는 1985년 인구 및 주택 센서스에서, 88,967가구에 375,866명이 살고 있는 것으로 나타났다.
(韓国学中央研究所よりhttp://lib.aks.ac.kr/Web/)
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※上記翻訳
<南平文氏>
◎文氏の由来と本貫

文氏は《朝鮮氏族統譜》と《増補文献備考》等の、文献に「南平」「丹城」「靈山」「保寧」「甘泉」「旌善」「結城」「開寧」「江陵」等が含まれ、156本があると記録しており、「甘泉」と「旌善」を除く本貫は、すべて「南平(文氏)」から由来しているということだ。
南平文氏は、新羅の慈悲王時代、「多省(という人)」が文氏の姓を受け(文氏の)始祖になり、甘泉文氏の始祖「文原吉」は本来「金閼智」の子孫で、彼の先祖中ひとりが中国に入って文章で名を馳せて文氏の姓を受けたという。
また旌善文氏の始祖の文林幹は本来全氏だったが、やはり中国で文名(文才)で名を上げ、文氏の姓を受けたという。
文氏は1985年人口および住宅国民調査で、88,967世帯に375,866人いることが明らかになった。
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この文献内容から、「南平(文氏)」であるとしておけば、あとから違っていると指摘されることはありません。文氏のルーツはほとんど「南平(文氏)」から始まっているわけですから。文教祖は、文氏の中でも、本家中の本家(韓国では「宗家」という)ではないようですが・・・。日帝時代に朝鮮(韓国)の戸籍整理をするときに、日本の戸籍欄にはない「本貫」を記載する欄が設けられました。日帝時代中の文教祖の戸籍が残っていれば、「本貫」もはっきりすると思うのですが、現在は北朝鮮になってしまっていますから、探しようがありません。



■文教祖は南平文氏の「宗家」ではない

南平文氏の「宗家でないことが再臨のメシアの資格がないわけではありませんが、「南平文氏世継表」を見てみると、2代目の「倬」までは「本流」です。しかし三代目からは「傍流」のようです。正式な世継ぎは「(始祖)文多省→倬→1.翼→2.公裕→3.克謙・・・」と続きます。

<文教祖の族譜>
 1代目 - 文多省
 2代目 - 倬 (倬・克・及)
 3代目 - 天降
 4代目 - 周伯(周男・周伯・周候・周昌・周興)
 5代目 - 繼祖(承祖・繼祖・胤祖・嗣祖)

※詳しくは「南平文氏大宗会(南平文氏世継表)」をご覧ください。
http://www.m-oo-n.com/


■南平文氏のマーク

$ちゃぬの韓国日記

(写真は南平文氏慶尚北道宗親会より)
http://www.m-oo-n.com/


■南平文氏はソロモンの末裔か?

再臨のメシアであるためには、肉体的(遺伝子的)血統が「正統」であるかも問題になってきます。原理講論では、あくまでこの話題を避けています。イエスでさえ、この血統問題でキリストであるという宗教と預言者である宗教に意見が分かれるほどです。メシアであるためには血統問題は避けて通れないのです。原理講論の再臨論では再臨のメシアの血統問題には触れず、あくまで「メシアの基台」の条件が整っている所に再臨すると述べるにとどまっています。

◇原理講論「再臨論」
再臨する内容
第一節 「いつ」
第二節 「どうやって」
第三節 「どこに」
第四節 「イエスの時代との共通点」
第五節 「再臨主による言語統一」

イエスからの血統の継承については、なんら言及がありません。原理講論「総序」の巻末に著者の劉孝元氏はこのように述べています。

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」

文先生の語る原理の全容を知るには、原理講論だけでは不足だということですね。しかし、信者の大多数が原理講論に感動し共感して入教して来ました。原理原本→原理解説→原理講論→原理本体論と移行することは、何を意味するのでしょうか?
統一教会は、時とともに原理の内容が変化する傾向がどうもあるようです。