2016年秋 仙台・気仙沼旅行 7 歌枕の正体
(ちょっと間があいちゃったけれど、9月の仙台、気仙沼旅行のつづき。
仙台の国府多賀城駅から多賀城跡を散策した後の話です。)
実はこの時、国府多賀城駅前にある東北博物館をじっくり堪能するか、
歌枕の「末の松山」や「沖の井」を見にいくか、迷った。(°Д°;≡°Д°;)
でも、多賀城跡で芭蕉が感動したという「壺碑」を見たことだし、
今回は芭蕉も見たという「歌枕」を見てみることにした。( ̄▽ ̄)
「歌枕」とは和歌の技法のひとつだが……
「平安時代後期の歌人源俊頼の著書『俊頼髄脳』には、『世に歌枕といひて所の名かきたるものあり』とあって、すでにこの頃には歌枕について、名所や由緒ある場所に限ることがあったと見られる。(中略)
もともと地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面がある。(中略)
また一方では、地名の歌枕は歌や物語で場面として繰り返し登場する中で、実際の風景から離れたところでイメージが形成されてきたものともいえる。(後略)」
(以上ウィキペディアより引用)
つまり、
平安後期以降、「歌枕」は、
実際には行ったこともない、見たこともない地(地名)なれど、
昔から歌に詠まれてイメージが定着していて、
そこからさらにイメージして歌われる、
和歌における“トリガー”みたいなもの……って感じ?Σ(゚д゚;)
イメージの固定された言葉を使って、歌う……それって、どーなんだろう?( °д°)
それがまたひとつの醍醐味だったりしたんだろうね?多分。f^_^;
でも、旅行中はそんな風に認識していなくて。
“「歌枕」といったら、古人が感動して思わず歌っちゃった所なんでしょ~?”
ってくらいに思っていて、 (//ω//)
昔とは変わり果てた風景になっていたとしても、
とりあえず自分が行ってどんな感じを受けるか、
ちょっと楽しみでもあったのよ。
仙石線多賀城駅のちょっと先にある歌枕を目指す。
東北本線国府多賀駅から仙石線多賀城駅までは直線距離だと1.5kmほどか。
地図を見ると、あまりランドマーク的なものもなく、
道も相当わかりにくかった。
が、人に尋ね尋ね、辿り着いた。
入り組んだ道を進んだ住宅地の一角に
ぽつんと現れた「沖の井」オキノイ(沖の石)
↓
街中の「池」やん?
海ないやん?
岩がごろごろ。
池の中に置いた「置きの石」かっ?
そもそも、
「井」と「石」がなぜ同格なの?
この時点で面食らう。
「石」がもともとで、「石」を略して「い」だけになって、
字を当てて「井」になったの?
奇岩が作り出す景観が“みごと”とされているようだが……。
この景観(?)を見て、どんな感慨を古の人々はもったというのだろう?
どうみても井戸にも見えず、なぜに「沖の井(あるいは「石」)」……?
説明板には二首有名な和歌が紹介されていた。
小野小町 (オノノコマチ 800年中ごろの女性ね)
おきのゐて 身をやくよりも かなしきは 宮こしまべの わかれなりけり
(古今和歌集)
……なんのこっちゃ?
後日ネットをググって探したところ、
この歌には、「いてのしまというたいを」という前書きがあり、
(井手の島という題を)
どうやら陸奥に「井手の島」という島があったようで、
それをお題に詠んだようで?
イデ 「いで(井手)」→オキノイデ “「沖の井」で”、
さらにオキノイテ 「燠の居て」 を掛けて作ったようで?
意味は、
「炭火がくっついて身体を焼くよりももっと悲しいのは、都へ行くあなたと、島辺に残る私との別れでございます。」
で、
「奥州にいる女が、都に帰る男との別離を悲しんで、奥(おき)の井の都島という所で酒を飲ましながら詠んだ歌てす。」
と、歌を詠んだ場所を「奥の井の宮古島」と限定しているサイトさえあった。
あれれ? お題は、「井手島」じゃないのか?
歌枕になった「沖の井」は意味的にも見当たりませぬが……?
チンプンカンプン
現地の説明板には解説は一切ないので、不明なり~。
しかし、小野小町は陸奥方面にいたらしい伝説もあるようなので、
彼女が、陸奥にすまう女が、都へ上京するという男との別れを惜しむ気持ちを切々と歌った……ってことはありうるだろうね。
「熾き火」……めらめら燃える炎ではなく、消えずに静かに燃え続ける火。
しかし、触れれば身を焦がすような、そんな静かで熱い恋の歌。
こりゃ成熟した女の歌やね~。
そんな恋の熾き火も、
この現実の”池”の風景を目にすると、ジュッ! と消えてしまう気がしなくもないが……。
説明板に紹介されていたもうひとつの歌は、
小野小町より200年以上後の歌人のもの。
二条院讃岐 (ニジョウインノサヌキ 1141~1217年の女性ね)
わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき
『千載集』
意味は、
「私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。」(「小倉百人一首講座」より引用)
この歌も、調べたら、前書きに、「寄石恋といへるこころをよめる」とある。
“石に寄せて恋の歌を詠み合いましょうよ!”ってな話になって、
彼女はこの歌を詠んだのだろう。v(。・ω・。)ィェィ♪
私ならどう詠むかな。
「石」といったら固い……恋人と交した固い約束のこととか?
変わらぬ恋心とか?
一度熱したらなかなか冷めない保温性のよさを恋心に例えるとか?
そんなところを、二条院讃岐さんは、
海の沖の波間に隠れている岩を持ち出して詠む!
なかなかワイルドじゃない~?
まして、歌といったら雅。
雅の世界にあって、この歌いっぷりは、
恋ゆえにめそめそと泣いてる女という常套手段ながらも、 たとえがワイルドという新境地をもしかしたら見せているのかもしれない?
こちらの歌は「沖の石」(「井」ではないが)がしっかり歌われているし、
意味も通っている。
彼女も陸奥の守を勤めた男性と結婚したりなど、奥州とは縁のある女性だったようで。
さらに、多賀城駅から徒歩15分ほど?のこの「沖の井(石)」あたり、
昔はここら辺まで海だったという説もあるようだ。
さらに、さらに、こんなサイトもあった。
↓
「浄土ヶ浜の沖さ、沖の井っつーどごがある。
海の底がら、真水が湧ぎ出でんだぁな。
四、五町ばがり沖合いっつーがら、五百メーターぐれえだべな。
北東っつーがら、日出島寄りのほうだべ。
――すなわち、いにしえよりその名聞こゆる沖の井これなり。
『奥々風土記』っつー古い本には、そう書がれでる。
沖の井ど呼ばれで、むがすから有名だったっつーこったぁな。」
(「宮古ものがたり」より引用)
結局、古の人々も「歌枕」のことは詳細に知らず、
歌のみにて想像を掻き立てられ、
それはどこか? などと推察を楽しみ、
噂に尾ひれ端ヒレ付いて、
あるものは廃れ、あるものはむしろ噂に従って創られなどし、
そこに旅人歌人が訪れたり、
イメージだけで歌ったり……
それが「歌枕」なのかな。
詳しいことを知らない私には、
なにやら澱んだ小さな池とごろごろ岩に草木少々……という感じの場所だった「沖の井(沖の石)」。
小野小町の歌も、二条院讃岐の歌も、
あぁ、こんな歌、あった気がする~と遠い記憶を少し刺激しただけで、
これといった感動もなく。
なぜにこの風景がこれらの歌に繋がるのが、とんと理解不能。
例えば江戸時代、この辺りの風景はどうだったのか、
浮世絵などがあって、それと見比べられたら面白かっただろうが……。
で、
ものの10分もしないうちに次なる目的地へ移動。
この「沖の井」から徒歩3分ほどのところ、
坂をちょっと上った辺りにある、「末の松山」。
「末の松山 波こさじとは」とか歌で色々歌われてきた「末の松山」。
何の「末」なのだか、私にはわからず仕舞い。(最近調べる気力も意欲もなくなってる。)
貞観の大震災のときも、津波はここまで来なかったらしい。
そんなこんなで、「まさか起こるまい」の代名詞のように詠み込まれてきたようなのだが、
やはり、どうも私にはしっくり来ないのであった……。
「松山」って言ってるけれど、松が生えまくっている山にも見えず。
歌枕の「末の松山」なる2本の松の木ばかりが大きくて立派。
大きいけれど、幹はさほど太くないし~。
何か腑に落ちない。
むぅ~っと憮然と見上げていると、
上の幹の途中、枝を剪定した跡に
なにやらくっついてるものを発見。
↓
鳥?
虫?
カメラをズームしてみたら、
キノコだっ!?
美味しそう。食べられそう。
「末の松山キノコ汁」なんてあったら、味わい深そうね♪
名だたる「歌枕」の「末の松山」にキノコが生えていた!
そのことの方が、私にはとても愉快に思えたことであった。
多賀城辺りは、他にも歌枕がたくさんあったし、
物語を含んだ小路もあったし、
有名な万葉人の跡があったりしたが、
「沖の井」と「末の松山」だけでも
“歌枕ガッカリ”度が強かったので、
疲れてしまい、撤収することにしたのであった。
おまけ:
後日
芭蕉の『奥の細道』をチェックしてみたら、
「壺碑」を見た後、「野田の多摩川・沖の石を尋ぬ。」と、
「沖の石」には特に感想なっしんぐ。(≧∇≦)
「末の松山」については、行を割いて、
「末の松山は寺を造りて末松山(マッショウザン)といふ。」とな。
もしかしたら、歌枕は夫婦を思わせる2本の「松」よりも、
「松のあい間あい間に墓が点々とある原っぱになって」いる辺りから、その上の小高いところに建てられた「末松山」なる寺まで全体を指していたのではないかいな?
松の合間に点在する墓石を見て、
「いつまでも変わるまいと約束した愛情も、永久に続くわけでもなく、
約束を交した人も結局終わりにはこのように墓に埋められてしまうのだと
悲しさが強く迫ってきて」……と芭蕉はしんみりとした感動を綴っている。
(参考:引用箇所は『おくのほそ道』野崎典子より)
「末の松山」というと、起こりえないことの代表。
私が恋しいあなたを忘れるなんてことはない!
この愛情は永遠だ! ……みたいな。
それを芭蕉は、そうはいっても、やっぱり死ぬ時はひとり。
みんな死んでいく。無常よのぉ……などとしんみりしたんだろうね。
旅の醍醐味は、自分がそこで何を感じるか、だね。