2015年晩秋の京都旅行です
狼煙を上げる暇なし?
在原業平……天皇家の血筋にありながら、臣籍降下し、
いち平安貴族としてプレイボーイの名を馳せた男。☆-( ^-゚)v
どんだけ色男だったのだろう?
……と画像をググってみた。
( °д°)
Σ\( ̄ー ̄;)
о(ж>▽<)y ☆
(以上、ネットより拝借の画像)
十輪寺パンフレットに載っている在原業平像。
↓
高子と恋仲だったのは、この頃だろうか?f^_^;
平安の頃の美男子って、こんな感じだったのだろうか?
それとも、外見より中身。
女性が惹かれちゃう口説き上手な男だったのだろうか。
恋多き男、在原業平が、
晩年西山に隠棲しているときでさえ「恋焦がれた二条后・藤原高子(タカイコ)」って、
どんなお方?
「二条后」って、“二条天皇の后”=時の天皇の一番の妻……ってことだよね?
ざっくり彼女の人生を追うと、
↓
藤原高子(フジワラノ タカイコ) (842~910年)。
――在原業平は(825~880年)で、彼女は業平より17歳違い?Σ(・ω・ノ)ノ!
当時としては、親子ほど歳が離れていたわけだ。
――でも、親子ほど年齢差の結婚も結構あったようだよね?
時の権力者、藤原一族(藤原長良と藤原乙春)の娘として誕生。
幼いときから宮中のイベントなどに参列していたようだが、
866年(貞観8年)、25歳の時、
清和天皇(9歳で即位。当時は17歳くらい)の
女御(「皇后・中宮」がファーストレディとすれば、「女御」はセカンドレベルの妻らしい?)となる。
……ウィキペディアによると、
在原業平と恋愛関係にあったのは、この入内前だったらしい。| 壁 |д・)
だから、入内するのが、25歳と遅かったのかな?
“お嬢様”としては、随分婚期が遅いよね?
昔、女なら花と咲く時期に、彼女はいったいどう過ごしていたのか、謎だわ。┐( ̄ヘ ̄)┌
ともかく、25歳で入内して、間もなく子供を生み、
876年(貞観18年)、35歳の頃、生んだ息子が陽成天皇(多分8歳くらい?)として即位!
だもんだから、彼女の位も上がって、
877年(元慶元年)、36歳で「皇太夫人」となり、
882年(元慶6年)、41歳の頃、「皇太后」の尊称を受ける。
が、
896年(寛平8年)、55歳頃、
元慶年代にお寺のお坊様と密通したろ?と嫌疑をかけられ、Σ(=°ω°=;ノ)ノ
「皇太后」の尊称を剥奪される。
……なぜに今頃?の感が否めないね。誰かの陰謀の臭いがするね。| 壁 |д・)
しかし、47年後の
943年には復位されたらしい。
……これも、なぜにそんな50年近くも後になって、復位なのか……?
(参照:「ウィキペディア藤原高子」)
わからないことばかりなり。
とにかく、彼女が25歳で入内する以前に業平と恋愛関係にあり、
彼女が入内しちゃった時は、業平42歳。∑(-x-;)
業平が十輪寺に隠棲したという「晩年」って、何歳の頃なのか?
42歳、高子がいよいよ手の届かない人となってしまったときかしら?
で、こんなサイトも見つけちゃった。
↓
「伊勢物語に見る在原業平」
こちらによると、
高子が入内した後も、業平は身分(位)が一段一段上がっており、
52歳のときには、
「高子大原野神社へ行幸?業平近衛権中将として供奉し、高子に祝いの歌を詠む」
とな!Σ(~∀~||;)
「供奉」とは、「ぐぶ:おともの行列に加わること。またその人。」
つまり、高子が大原野神社へ参拝(行幸?)したとき、
お供のものとして行列に参加していた!?∑(゚Д゚)
十輪寺で塩焼いて恋の狼煙を上げてる場合じゃないじゃん!?
ど、ど、どーなのよ、なりひら!?ヽ(;´Д`)ノ
それとも、もう普段は十輪寺に住んでいて、
高子の行列に途中から参加して、歌など詠んで、
退席した後、
高子様はお供も多くて、まさか逢引もできないので、
十輪寺に戻って、
塩焼いて狼煙を上げた……ってこと?
細かく追求していくと、な~んもわからん。爆( ´(ェ)`)
とにかく、清和天皇の皇后ともなった美人で名高い藤原高子と恋仲になったこともある
さすがプレイボーイの業平である……ということか。
彼が晩年、十輪寺に住んだ際、裏庭の塩釜で塩を焼いたりしたら、
彼のことだから、きっと恋の狼煙を上げてるに違いない……
なんて人が勝手にまことしやかに噂して、今に至るのかも?
チンプンカンプなれど、
今回あれこれググっていたら、
業平の出自が、
曽祖父は都を平安に定めた“元祖平安京”とも言える桓武天皇、
祖父は平城(ヘイゼイ)天皇、大叔父さんは嵯峨天皇、
父は平城天皇の息子阿保親王(アボシンノウ)、母は曽祖父桓武天皇の娘……とわかった。(((゜д゜;)))
血の濃い家系である。
祖父、平城天皇は、「妃の母である藤原薬子フジワラノクスコを寵愛して醜聞を招き」
……自分の妻の母、つまり義母と関係を持つというスキャンダラスなお方だったようで、
ひかも、同母の弟の嵯峨天皇に天皇の位を譲った後に謀反を起こそうとしたり、
ひっちゃかめっちゃか。(°Д°;≡°Д°;)
結局、こんな不穏な平城天皇を祖父として持ったためか、
天皇の位はやがて嵯峨天皇系へと繋がり、
平城天皇系の業平は臣籍降下し、在原の姓を名乗るようになったようだ。
天皇レースからの脱落だ。
臣籍降下は、業平が2歳の頃のことらしい。Σ(~∀~||;)
――だもんだから、彼には物心着くころから「在原」姓で、
いち貴族として生きていく方針で、
憂き世では、色恋、芸術のジャンルで躍進しようと腹を括っていたのではなかろうか。
こんなプレイボーイの妻は? と調べたら、いた!(・ω・)b
「紀有常の女」。「紀」系。
プレイボーイな男を夫に持った平安の妻の手記でもあったら、現代でも案外面白く読めるかもしれないね?( ´艸`)
それにしても、関連する人々を見ていると、
〈嵯峨天皇―清和天皇―伝教大師【最澄】―坂上田村麻呂〉に対して、
〈平城天皇―業平―弘法大師【空海】〉という構図があるようで。
十輪寺は清和天皇に縁があるものの、
祀られている御本尊は「伝教大師御作の延命地蔵菩薩」。
業平にとっては、なにかと居心地のよい十輪寺だったのではないだろうか。
「迷わずの鐘」
「三方普感の庭」
離れ?の襖絵だか壁画だかに、描かれているのは、塩釜を焚いているシーンだろうか?
(樹齢800年の楠木)
これが何なのか、とても気になったのだが、聞きそびれた。
手作りの蜘蛛の糸? 何かのまじない?
↓
季節柄、あいにくと見られなかったが、
桜もよいようだ。
↓
(ネットより拝借:なりひら桜)
十輪寺、なによりお坊様が私のような変なおばさんにも丁寧に答えてくれて、
いいお寺だった~♡ ホレテマウヤロー
狼煙を上げる暇なし?
在原業平……天皇家の血筋にありながら、臣籍降下し、
いち平安貴族としてプレイボーイの名を馳せた男。☆-( ^-゚)v
どんだけ色男だったのだろう?
……と画像をググってみた。
( °д°)
Σ\( ̄ー ̄;)
о(ж>▽<)y ☆
(以上、ネットより拝借の画像)
十輪寺パンフレットに載っている在原業平像。
↓
高子と恋仲だったのは、この頃だろうか?f^_^;
平安の頃の美男子って、こんな感じだったのだろうか?
それとも、外見より中身。
女性が惹かれちゃう口説き上手な男だったのだろうか。
恋多き男、在原業平が、
晩年西山に隠棲しているときでさえ「恋焦がれた二条后・藤原高子(タカイコ)」って、
どんなお方?
「二条后」って、“二条天皇の后”=時の天皇の一番の妻……ってことだよね?
ざっくり彼女の人生を追うと、
↓
藤原高子(フジワラノ タカイコ) (842~910年)。
――在原業平は(825~880年)で、彼女は業平より17歳違い?Σ(・ω・ノ)ノ!
当時としては、親子ほど歳が離れていたわけだ。
――でも、親子ほど年齢差の結婚も結構あったようだよね?
時の権力者、藤原一族(藤原長良と藤原乙春)の娘として誕生。
幼いときから宮中のイベントなどに参列していたようだが、
866年(貞観8年)、25歳の時、
清和天皇(9歳で即位。当時は17歳くらい)の
女御(「皇后・中宮」がファーストレディとすれば、「女御」はセカンドレベルの妻らしい?)となる。
……ウィキペディアによると、
在原業平と恋愛関係にあったのは、この入内前だったらしい。| 壁 |д・)
だから、入内するのが、25歳と遅かったのかな?
“お嬢様”としては、随分婚期が遅いよね?
昔、女なら花と咲く時期に、彼女はいったいどう過ごしていたのか、謎だわ。┐( ̄ヘ ̄)┌
ともかく、25歳で入内して、間もなく子供を生み、
876年(貞観18年)、35歳の頃、生んだ息子が陽成天皇(多分8歳くらい?)として即位!
だもんだから、彼女の位も上がって、
877年(元慶元年)、36歳で「皇太夫人」となり、
882年(元慶6年)、41歳の頃、「皇太后」の尊称を受ける。
が、
896年(寛平8年)、55歳頃、
元慶年代にお寺のお坊様と密通したろ?と嫌疑をかけられ、Σ(=°ω°=;ノ)ノ
「皇太后」の尊称を剥奪される。
……なぜに今頃?の感が否めないね。誰かの陰謀の臭いがするね。| 壁 |д・)
しかし、47年後の
943年には復位されたらしい。
……これも、なぜにそんな50年近くも後になって、復位なのか……?
(参照:「ウィキペディア藤原高子」)
わからないことばかりなり。
とにかく、彼女が25歳で入内する以前に業平と恋愛関係にあり、
彼女が入内しちゃった時は、業平42歳。∑(-x-;)
業平が十輪寺に隠棲したという「晩年」って、何歳の頃なのか?
42歳、高子がいよいよ手の届かない人となってしまったときかしら?
で、こんなサイトも見つけちゃった。
↓
「伊勢物語に見る在原業平」
こちらによると、
高子が入内した後も、業平は身分(位)が一段一段上がっており、
52歳のときには、
「高子大原野神社へ行幸?業平近衛権中将として供奉し、高子に祝いの歌を詠む」
とな!Σ(~∀~||;)
「供奉」とは、「ぐぶ:おともの行列に加わること。またその人。」
つまり、高子が大原野神社へ参拝(行幸?)したとき、
お供のものとして行列に参加していた!?∑(゚Д゚)
十輪寺で塩焼いて恋の狼煙を上げてる場合じゃないじゃん!?
ど、ど、どーなのよ、なりひら!?ヽ(;´Д`)ノ
それとも、もう普段は十輪寺に住んでいて、
高子の行列に途中から参加して、歌など詠んで、
退席した後、
高子様はお供も多くて、まさか逢引もできないので、
十輪寺に戻って、
塩焼いて狼煙を上げた……ってこと?
細かく追求していくと、な~んもわからん。爆( ´(ェ)`)
とにかく、清和天皇の皇后ともなった美人で名高い藤原高子と恋仲になったこともある
さすがプレイボーイの業平である……ということか。
彼が晩年、十輪寺に住んだ際、裏庭の塩釜で塩を焼いたりしたら、
彼のことだから、きっと恋の狼煙を上げてるに違いない……
なんて人が勝手にまことしやかに噂して、今に至るのかも?
チンプンカンプなれど、
今回あれこれググっていたら、
業平の出自が、
曽祖父は都を平安に定めた“元祖平安京”とも言える桓武天皇、
祖父は平城(ヘイゼイ)天皇、大叔父さんは嵯峨天皇、
父は平城天皇の息子阿保親王(アボシンノウ)、母は曽祖父桓武天皇の娘……とわかった。(((゜д゜;)))
血の濃い家系である。
祖父、平城天皇は、「妃の母である藤原薬子フジワラノクスコを寵愛して醜聞を招き」
……自分の妻の母、つまり義母と関係を持つというスキャンダラスなお方だったようで、
ひかも、同母の弟の嵯峨天皇に天皇の位を譲った後に謀反を起こそうとしたり、
ひっちゃかめっちゃか。(°Д°;≡°Д°;)
結局、こんな不穏な平城天皇を祖父として持ったためか、
天皇の位はやがて嵯峨天皇系へと繋がり、
平城天皇系の業平は臣籍降下し、在原の姓を名乗るようになったようだ。
天皇レースからの脱落だ。
臣籍降下は、業平が2歳の頃のことらしい。Σ(~∀~||;)
――だもんだから、彼には物心着くころから「在原」姓で、
いち貴族として生きていく方針で、
憂き世では、色恋、芸術のジャンルで躍進しようと腹を括っていたのではなかろうか。
こんなプレイボーイの妻は? と調べたら、いた!(・ω・)b
「紀有常の女」。「紀」系。
プレイボーイな男を夫に持った平安の妻の手記でもあったら、現代でも案外面白く読めるかもしれないね?( ´艸`)
それにしても、関連する人々を見ていると、
〈嵯峨天皇―清和天皇―伝教大師【最澄】―坂上田村麻呂〉に対して、
〈平城天皇―業平―弘法大師【空海】〉という構図があるようで。
十輪寺は清和天皇に縁があるものの、
祀られている御本尊は「伝教大師御作の延命地蔵菩薩」。
業平にとっては、なにかと居心地のよい十輪寺だったのではないだろうか。
「迷わずの鐘」
「三方普感の庭」
離れ?の襖絵だか壁画だかに、描かれているのは、塩釜を焚いているシーンだろうか?
(樹齢800年の楠木)
これが何なのか、とても気になったのだが、聞きそびれた。
手作りの蜘蛛の糸? 何かのまじない?
↓
季節柄、あいにくと見られなかったが、
桜もよいようだ。
↓
(ネットより拝借:なりひら桜)
十輪寺、なによりお坊様が私のような変なおばさんにも丁寧に答えてくれて、
いいお寺だった~♡ ホレテマウヤロー