2014年 花巻散策&早池峰登山&遠野散策
4語るもの、引き合わせるもの、書きとめるもの
伝承園では、「佐々木喜善の碑」なるものがあって。
↓
柳田國男に遠野物語を語ったのは、佐々木喜善(鏡石)なのだった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノソ、ソーイエバ…
(↑佐々木喜善 ササキ キゼン)
文学を志していた水野葉舟が、たまたま同宿した佐々木喜善から遠野の物語を聞いて、
その素晴らしさに驚き、
友達の柳田國男に佐々木喜善を紹介したらしい。(ノ^^)八(^^ )ノ
↓
(↑ 水野葉舟 ミズノ ヨウシュウ)
(↓柳田國男 ヤナギタ クニオ)←やなぎ「だ」ではなくて、「た」ね。
で、
柳田國男は、夢中になって佐々木喜善から遠野の物語を聞いたらしい。
佐々木喜善がしっかりと遠野の物語を語り伝えかたら、
そして、水野葉舟が佐々木喜善の物語の素晴らしさを見逃さず、柳田に引き合わせたから、
柳田國男の『遠野物語』は生み出されたのだ。
そういえば、『遠野物語』に佐々木から聞いた話だと前置きがあったっけ。
↓
参照:「遠野物語」
「この話はすべて遠野(とおの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。
昨(さく)明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪(たず)ね来(き)たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじょうず)にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減(かげん)せず感じたるままを書きたり。」
柳田が佐々木のどんな点を“話し上手ではない”と感じたのかはわからないけれど、
あれだけの物語を語り伝えるって、凄いよね。
日本人は、その昔、文字を持たぬ民族で、すべては語って伝えてきたというし、
佐々木喜善のような人は、
超記憶力抜群の語り部である、『古事記』編纂メンバーだった稗田阿礼(ヒエダノアレ)さんの
末裔だったりしないのかしら……?(=◇=;)
『遠野物語』のこの一節を読んだときは、
柳田が誰から話を聞いたか……なんて気にも留めていなかったが、(/ω\)
遠野に来て、佐々木喜善や水野葉舟らの経歴や写真を目にし、
彼らの存在あっての『遠野物語』だったことに改めて思い至ると、
青雲の志をもった当時の青年たちの繋がりと情熱が
あの一冊の本に集結しているのだなぁと感無量。(ノ◇≦。)
『遠野物語』が出版されたのは1910(明治43)年。
1875(明治8)年生まれの柳田國男、35歳の頃だ。
柳田國男というと、老齢になった頃の写真ばかり目にしていて、
“おじいさん”のイメージだったが、
考えれば、若いときから文学や詩や民俗学的なことに情熱を持って生きていたんだよね。
柳田國男は佐々木から聞いた話だと断ったあとに、こう続けている。
↓
「思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」(『遠野物語』より)
「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」
――なんと野心と自信と決意と情熱に満ちた言葉か。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
さんざん日本中を民話を求めて歩き回った柳田も凄いけれど、
柳田國男ほど全国にその名は知られていないけれども、
遠野の物語の素晴らしさを受け止めた水野葉舟、
惜しみなく語り伝えた佐々木喜善、
彼らも素晴らしい!
そして、どんなに科学が進歩しても、
我々は、山の神や山の物語に戦慄させられる心を
山や異形のものたちに対する畏怖を(。-人-。)
人間の卑小さと健気さとを
忘れちゃいかんと思うのであった。
また長くなったので つづく
4語るもの、引き合わせるもの、書きとめるもの
伝承園では、「佐々木喜善の碑」なるものがあって。
↓
柳田國男に遠野物語を語ったのは、佐々木喜善(鏡石)なのだった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノソ、ソーイエバ…
(↑佐々木喜善 ササキ キゼン)
文学を志していた水野葉舟が、たまたま同宿した佐々木喜善から遠野の物語を聞いて、
その素晴らしさに驚き、
友達の柳田國男に佐々木喜善を紹介したらしい。(ノ^^)八(^^ )ノ
↓
(↑ 水野葉舟 ミズノ ヨウシュウ)
(↓柳田國男 ヤナギタ クニオ)←やなぎ「だ」ではなくて、「た」ね。
で、
柳田國男は、夢中になって佐々木喜善から遠野の物語を聞いたらしい。
佐々木喜善がしっかりと遠野の物語を語り伝えかたら、
そして、水野葉舟が佐々木喜善の物語の素晴らしさを見逃さず、柳田に引き合わせたから、
柳田國男の『遠野物語』は生み出されたのだ。
そういえば、『遠野物語』に佐々木から聞いた話だと前置きがあったっけ。
↓
参照:「遠野物語」
「この話はすべて遠野(とおの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。
昨(さく)明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪(たず)ね来(き)たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじょうず)にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減(かげん)せず感じたるままを書きたり。」
柳田が佐々木のどんな点を“話し上手ではない”と感じたのかはわからないけれど、
あれだけの物語を語り伝えるって、凄いよね。
日本人は、その昔、文字を持たぬ民族で、すべては語って伝えてきたというし、
佐々木喜善のような人は、
超記憶力抜群の語り部である、『古事記』編纂メンバーだった稗田阿礼(ヒエダノアレ)さんの
末裔だったりしないのかしら……?(=◇=;)
『遠野物語』のこの一節を読んだときは、
柳田が誰から話を聞いたか……なんて気にも留めていなかったが、(/ω\)
遠野に来て、佐々木喜善や水野葉舟らの経歴や写真を目にし、
彼らの存在あっての『遠野物語』だったことに改めて思い至ると、
青雲の志をもった当時の青年たちの繋がりと情熱が
あの一冊の本に集結しているのだなぁと感無量。(ノ◇≦。)
『遠野物語』が出版されたのは1910(明治43)年。
1875(明治8)年生まれの柳田國男、35歳の頃だ。
柳田國男というと、老齢になった頃の写真ばかり目にしていて、
“おじいさん”のイメージだったが、
考えれば、若いときから文学や詩や民俗学的なことに情熱を持って生きていたんだよね。
柳田國男は佐々木から聞いた話だと断ったあとに、こう続けている。
↓
「思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」(『遠野物語』より)
「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」
――なんと野心と自信と決意と情熱に満ちた言葉か。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
さんざん日本中を民話を求めて歩き回った柳田も凄いけれど、
柳田國男ほど全国にその名は知られていないけれども、
遠野の物語の素晴らしさを受け止めた水野葉舟、
惜しみなく語り伝えた佐々木喜善、
彼らも素晴らしい!
そして、どんなに科学が進歩しても、
我々は、山の神や山の物語に戦慄させられる心を
山や異形のものたちに対する畏怖を(。-人-。)
人間の卑小さと健気さとを
忘れちゃいかんと思うのであった。
また長くなったので つづく