2014年4月京都の春 2婆の旅
2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。
26 二条陣屋(ニジョウジンヤ)の主は……
これは、後日、落ち着いてパンフレットなどを読んで知ったことなのだが、
二条陣屋の主は、江戸時代の豪商、「万屋(ヨロヅヤ)平右衛門」。
そう名乗った彼は、小川千橘(センキツ)。小川土佐守。
この方はどなたかとググってみたら、
参照:小川土佐守祐忠(スケタダ)
↓
諸説あるようだったが、その一説には……
小川氏はもともと近江の土豪で、
千橘の父、小川土佐守祐忠(スケタダ)の頃には
小川城の城主となったり、
その後あちらにつき、こちらにつき、豊臣秀吉に仕えるなどして、
戦国の世をなんとか生き抜いたものの、
関が原の戦い後、「改易(=職の変更、身分の剥奪、所領の没収など=更迭)」となり、
京都に隠棲し、まもなく没したらしい。
で、
その子、千橘は、
京で、「萬屋の屋号を用い両替商となり成功を収め、
寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商と」なったわけだ。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
だから、二条陣屋の玄関先に、「米・両替商の標章」が掲げられていたのだ!
↓
父親小川土佐守祐忠が「改易」になって失望のまま京で没したというのに、
息子の千橘は、いかに「両替商」になど、なれたのだろう?
財産だって没収されて、あまりなかったのではないだろうか?
隠し財産でもあったのだろうか?
それとも、影でサポートしてくれる大物の誰かがいたのだろうか?
なぞだ。┐( ̄ヘ ̄)┌
わからないけれども、
千橘が武士ではなく、両替商人として成功したのは事実。
小川祐忠の子孫には「赤ひげ先生」の愛称で知られる小川 笙船(おがわ しょうせん、寛文12年(1672年) - 宝暦10年6月14日(1760年7月26日)江戸時代、小石川療養所の所長、町医者。)がいて、
小川家には医者が多いという。
千橘も、武士よりは商人の方が気性に合っていたのかもしれないよね。
二条本陣の決め細やかなカラクリ具合を見ても、
どれだけ泊まりにくる大名たちの安全を保とうと心を砕いたかが偲ばれる。
武術より知恵と気配りに長けた一族だったのかもしれない。(-_☆)
でも、千橘の父、小川土佐守祐忠(スケタダ)は
かつて城主だったこともある武将だった。
役職も所領も没収されて京都に移り住んですぐに亡くなった父親を思えば、
ここを「陣屋」と称したかったのかなぁ?
それとも、諸大名たちが勝手に「二条陣屋」と呼び始めたのかなぁ?
やっぱり、謎だわ。(/ω\)
さて、遅ればせながら、
二条城がその名の通り、まじ、「城」なのだと気づいた私。(///∇//)
後日、調べてみたら、
参照:二条城
足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、Σ(・ω・ノ)ノ!
将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。(=◇=;)
のちには、二条通に面していなくても
将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。Σ(・ω・ノ)ノ!
ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。
二条城と西院城を平安京の両城ともいう。(=◇=;)
……とな。
改めて二条城の写真を見ると、外側には石垣が!
↓
お濠もある!
↓
確かに二条城は「城」の構えをしてるがな!Σ(・ω・;|||
どうして、私は今まで何度も二条城を訪れながら、
「城」と意識していなかったのかなぁ……?(/ω\)
なぞだ。┐( ̄ヘ ̄)┌
あふぉ~
つづく
2014年、4月に、2婆(姉・私)で、京都に花見旅行に行ったときの覚書です。
26 二条陣屋(ニジョウジンヤ)の主は……
これは、後日、落ち着いてパンフレットなどを読んで知ったことなのだが、
二条陣屋の主は、江戸時代の豪商、「万屋(ヨロヅヤ)平右衛門」。
そう名乗った彼は、小川千橘(センキツ)。小川土佐守。
この方はどなたかとググってみたら、
参照:小川土佐守祐忠(スケタダ)
↓
諸説あるようだったが、その一説には……
小川氏はもともと近江の土豪で、
千橘の父、小川土佐守祐忠(スケタダ)の頃には
小川城の城主となったり、
その後あちらにつき、こちらにつき、豊臣秀吉に仕えるなどして、
戦国の世をなんとか生き抜いたものの、
関が原の戦い後、「改易(=職の変更、身分の剥奪、所領の没収など=更迭)」となり、
京都に隠棲し、まもなく没したらしい。
で、
その子、千橘は、
京で、「萬屋の屋号を用い両替商となり成功を収め、
寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商と」なったわけだ。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
だから、二条陣屋の玄関先に、「米・両替商の標章」が掲げられていたのだ!
↓
父親小川土佐守祐忠が「改易」になって失望のまま京で没したというのに、
息子の千橘は、いかに「両替商」になど、なれたのだろう?
財産だって没収されて、あまりなかったのではないだろうか?
隠し財産でもあったのだろうか?
それとも、影でサポートしてくれる大物の誰かがいたのだろうか?
なぞだ。┐( ̄ヘ ̄)┌
わからないけれども、
千橘が武士ではなく、両替商人として成功したのは事実。
小川祐忠の子孫には「赤ひげ先生」の愛称で知られる小川 笙船(おがわ しょうせん、寛文12年(1672年) - 宝暦10年6月14日(1760年7月26日)江戸時代、小石川療養所の所長、町医者。)がいて、
小川家には医者が多いという。
千橘も、武士よりは商人の方が気性に合っていたのかもしれないよね。
二条本陣の決め細やかなカラクリ具合を見ても、
どれだけ泊まりにくる大名たちの安全を保とうと心を砕いたかが偲ばれる。
武術より知恵と気配りに長けた一族だったのかもしれない。(-_☆)
でも、千橘の父、小川土佐守祐忠(スケタダ)は
かつて城主だったこともある武将だった。
役職も所領も没収されて京都に移り住んですぐに亡くなった父親を思えば、
ここを「陣屋」と称したかったのかなぁ?
それとも、諸大名たちが勝手に「二条陣屋」と呼び始めたのかなぁ?
やっぱり、謎だわ。(/ω\)
さて、遅ればせながら、
二条城がその名の通り、まじ、「城」なのだと気づいた私。(///∇//)
後日、調べてみたら、
参照:二条城
足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、Σ(・ω・ノ)ノ!
将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。(=◇=;)
のちには、二条通に面していなくても
将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。Σ(・ω・ノ)ノ!
ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。
二条城と西院城を平安京の両城ともいう。(=◇=;)
……とな。
改めて二条城の写真を見ると、外側には石垣が!
↓
お濠もある!
↓
確かに二条城は「城」の構えをしてるがな!Σ(・ω・;|||
どうして、私は今まで何度も二条城を訪れながら、
「城」と意識していなかったのかなぁ……?(/ω\)
なぞだ。┐( ̄ヘ ̄)┌
あふぉ~
つづく