2013年京都3婆もみじ旅行 6 圓通寺(エンツウジ)
昨年11月、京都旅行の続きです。
上賀茂神社を出て、下賀茂神社に向かう途中、
タクシーの運転手さんがお薦めしてくれた圓通寺(エンツウジ)へ寄ってみた。
「江戸時代初期(1639年)、後水尾天皇が造営された幡枝離宮のあと」だって。(・∀・)
幡枝(ハタエダ)ってのは、上賀茂神社と比叡山のちょうど真ん中辺りの地名のようだ。
(パンフレットでは、人名や地名には、是非読み仮名を振って頂きたいっ! ヒソッヽ(;´Д`)ノ)
つまり、圓通寺の東側には比叡山がそびえている。
ので、
比叡山を拝借した“借景”のお庭が見所ということで、
↓
お庭から、比叡山、どーん!ヾ(@^(∞)^@)ノ
枯山水平庭には、お決まりの岩がごろごろ
意味ありげに配置されている。
↓
ごくこじんまりしたお庭であったけれど、
天皇関係のお寺は、やはりどこか雅だ。
比叡山を望みながら静かにひと時の紅葉に浸るには
“穴場”かもしれない。
(庭に面した間には、さりげなくホットカーペットが敷かれているし。)
↑
「柿落葉 踏ミて たづねぬ 圓通寺 高浜虚子」
高浜虚子も圓通寺を訪ねたのか。( ´艸`)
それにしても、……つまらん句だ。(と思うのは、私だけ?)
入り口に立てかけてあった、この看板も
よく見ると……
↓
「静心」のところが直筆で、
それ以外は印刷の字(明朝体?)。Σ(・ω・;|||
つまり、
「~にておまいり下さい」とだけ印字された出来合いの看板で、
「~」の部分には、各寺が思い思いの言葉を入れられるように出来ている……ってわけだよね。
一見、ちょっとしたアイディア看板に思えないこともないが、
なんか、手抜きの看板だなぁ~。о(ж>▽<)y ☆
「静心」まで書いたなら、残りもさららと書けばいいのに……
などと、返って「静心」を失してしまった私であった。(/ω\)
↑
いかにも心静かに庭を味わっていた他の参拝客さん。(。-人-。)
後記:
「後水尾(ゴミズノオ)天皇」って、どなた?(;´Д`)ノ
ってんで、ウィキてみた。
こんなお方。
↓
(ネットより拝借画像)
「第108代天皇(在位:1611年5月9日~ 1629年12月22日)。」
「後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子。」
……豊臣秀吉の養子である娘が生んだ子だった。
つまり、
家柄のいいところから娘を養子にもらって、
その子、後水尾天皇の誕生で、
秀吉はまんまと天皇のおじい様となったわけだ。(=◇=;)
後水尾天皇の父親は、後陽成(ゴヨウゼイ)天皇で、
「後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。」
って。
秀吉の頃は、まだ天皇様と持ち上げられていたけれど、
江戸幕府が開かれると……だったみたい。
“家臣”であるはずの武将たちが、手の平を返すように自分達を牛耳始める状況の中で生きた後陽成天皇を父とし、
自分も猶子(養子)とはいえ秀吉の娘と結ばれた後水尾天皇……。
色々大変だったんだろうな。(=◇=;)
圓通寺入り口に立てかけてあったあの看板のように、
肝心な部分を好き勝手に書き込まれて振りかざされた看板のような人生だったのかもしれない……?
おまけ1:
「葬儀は火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、後陽成天皇は、平成の現在において、最後に火葬で葬られた天皇である」
……ですって!
後陽成天皇以降、ずーっと土葬にされてきた天皇の埋葬が、
平成の今生天皇によって再び復活なるか? なのだ。
後陽成天皇以前には「火葬」もありだったってことだよね~。
おまけ2:
後水尾天皇の母、近衛 前子(コノエ サキコ)は、
「(1630年)7月3日に死去。泉涌寺に葬られた」ですって。
「泉涌寺(センニュウジ)」は以前お参りしたことがある。w川・o・川w
「楊貴妃観音」で知られる、すっきりとしたお寺だった。
あの時は、後水尾天皇の母、近衛前子が眠っているなんて知りもしないでいたわ。
ってか、「このえさきこ」なんて名前も知らずにいたけれど、
権力闘争に“道具”として利用された女性として、
戦国時代から江戸時代へという過渡期、
どうにもならない時代の中で、
彼女にも彼女なりの生き様があったんだろうなぁ。(´_`。)
京都を旅していくと、色々なところで点と点が繋がっていく気がする。
(でも、それで見えてきた線はぐちゃぐちゃにこんがらがって、
私にはとんと追いきれないのだけど。Y(>_<、)Y)
つづく
昨年11月、京都旅行の続きです。
上賀茂神社を出て、下賀茂神社に向かう途中、
タクシーの運転手さんがお薦めしてくれた圓通寺(エンツウジ)へ寄ってみた。
「江戸時代初期(1639年)、後水尾天皇が造営された幡枝離宮のあと」だって。(・∀・)
幡枝(ハタエダ)ってのは、上賀茂神社と比叡山のちょうど真ん中辺りの地名のようだ。
(パンフレットでは、人名や地名には、是非読み仮名を振って頂きたいっ! ヒソッヽ(;´Д`)ノ)
つまり、圓通寺の東側には比叡山がそびえている。
ので、
比叡山を拝借した“借景”のお庭が見所ということで、
↓
お庭から、比叡山、どーん!ヾ(@^(∞)^@)ノ
枯山水平庭には、お決まりの岩がごろごろ
意味ありげに配置されている。
↓
ごくこじんまりしたお庭であったけれど、
天皇関係のお寺は、やはりどこか雅だ。
比叡山を望みながら静かにひと時の紅葉に浸るには
“穴場”かもしれない。
(庭に面した間には、さりげなくホットカーペットが敷かれているし。)
↑
「柿落葉 踏ミて たづねぬ 圓通寺 高浜虚子」
高浜虚子も圓通寺を訪ねたのか。( ´艸`)
それにしても、……つまらん句だ。(と思うのは、私だけ?)
入り口に立てかけてあった、この看板も
よく見ると……
↓
「静心」のところが直筆で、
それ以外は印刷の字(明朝体?)。Σ(・ω・;|||
つまり、
「~にておまいり下さい」とだけ印字された出来合いの看板で、
「~」の部分には、各寺が思い思いの言葉を入れられるように出来ている……ってわけだよね。
一見、ちょっとしたアイディア看板に思えないこともないが、
なんか、手抜きの看板だなぁ~。о(ж>▽<)y ☆
「静心」まで書いたなら、残りもさららと書けばいいのに……
などと、返って「静心」を失してしまった私であった。(/ω\)
↑
いかにも心静かに庭を味わっていた他の参拝客さん。(。-人-。)
後記:
「後水尾(ゴミズノオ)天皇」って、どなた?(;´Д`)ノ
ってんで、ウィキてみた。
こんなお方。
↓
(ネットより拝借画像)
「第108代天皇(在位:1611年5月9日~ 1629年12月22日)。」
「後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子。」
……豊臣秀吉の養子である娘が生んだ子だった。
つまり、
家柄のいいところから娘を養子にもらって、
その子、後水尾天皇の誕生で、
秀吉はまんまと天皇のおじい様となったわけだ。(=◇=;)
後水尾天皇の父親は、後陽成(ゴヨウゼイ)天皇で、
「後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。」
って。
秀吉の頃は、まだ天皇様と持ち上げられていたけれど、
江戸幕府が開かれると……だったみたい。
“家臣”であるはずの武将たちが、手の平を返すように自分達を牛耳始める状況の中で生きた後陽成天皇を父とし、
自分も猶子(養子)とはいえ秀吉の娘と結ばれた後水尾天皇……。
色々大変だったんだろうな。(=◇=;)
圓通寺入り口に立てかけてあったあの看板のように、
肝心な部分を好き勝手に書き込まれて振りかざされた看板のような人生だったのかもしれない……?
おまけ1:
「葬儀は火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、後陽成天皇は、平成の現在において、最後に火葬で葬られた天皇である」
……ですって!
後陽成天皇以降、ずーっと土葬にされてきた天皇の埋葬が、
平成の今生天皇によって再び復活なるか? なのだ。
後陽成天皇以前には「火葬」もありだったってことだよね~。
おまけ2:
後水尾天皇の母、近衛 前子(コノエ サキコ)は、
「(1630年)7月3日に死去。泉涌寺に葬られた」ですって。
「泉涌寺(センニュウジ)」は以前お参りしたことがある。w川・o・川w
「楊貴妃観音」で知られる、すっきりとしたお寺だった。
あの時は、後水尾天皇の母、近衛前子が眠っているなんて知りもしないでいたわ。
ってか、「このえさきこ」なんて名前も知らずにいたけれど、
権力闘争に“道具”として利用された女性として、
戦国時代から江戸時代へという過渡期、
どうにもならない時代の中で、
彼女にも彼女なりの生き様があったんだろうなぁ。(´_`。)
京都を旅していくと、色々なところで点と点が繋がっていく気がする。
(でも、それで見えてきた線はぐちゃぐちゃにこんがらがって、
私にはとんと追いきれないのだけど。Y(>_<、)Y)
つづく