奈良の酒、久保本家酒造再び&クラブハリエ巡り
6 奈良散策 テンプルバラード
(2012年1月末の旅行日記です。日記はつづくよ、どこまでも。
だらだらだ~、ら・だらだらだ~、ら・だら・だら・だーらー、だっ・らっ・ら~♪)
久保本家酒造の酒蔵見学&試飲会を終えた後は、
ほろ酔いのまま、新薬師寺を目指した。
去年は白毫寺(びゃくごうじ)を訪れたのだが、
すぐそばに新薬師寺があったのに、うっかりスルー!
今年こそ、新薬師寺!
近鉄奈良駅前からバスも出ているが、
本数もさほど多くないので、
ほろほろ歩いていくことに。
薬師寺を求め歩く道々、
小さな神社がぽこぽこ点在していた。
赤穂神社(アコウジンジャ)――
天武天皇6年(678年)に十市皇女(トオチノヒメミコ)を、
天武天皇10年(682年)に氷上(ヒカミ)ノ夫人(←ウィキペディアでは「氷上娘」とされている)を、
「赤穂」の地に葬る……
と、日本書紀に書かれているらしく、
“その赤穂とはこのあたりだろう”と看板に記されている。(=◇=;)
十市皇女(トオチノヒメミコ)とは、
天武天皇を父、額田王を母として生まれた天武天皇の第一皇女。
大友皇子(弘文天皇)の正妃。(・∀・)
大友皇子(第39代、弘文天皇)は、
天智天皇を父、伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)を母として生まれた天智天皇の第一皇子。(・∀・)
天智天皇と天武天皇は兄弟なのだから、十市皇女と大友皇子は従兄弟同士。(=◇=;)
そして、
大友皇子は「壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自殺する(byウィキペディア)」。
大海人皇子(天武天皇)は、長女の夫でもある甥を自殺に追い込んだわけだ。∑(゚Д゚)
十市皇女はそんな中でどんな最期を遂げたのだろう?
父と夫が滅ぼし合うなんて、身を裂かれる思いだったろうに……。
氷上ノ夫人は、
「 藤原鎌足の子。大原大刀自の姉。天武天皇の夫人で、但馬皇女の母。日本書紀には「氷上娘」「氷上夫人」として見える(byウィキペディア)。」と。(=◇=;)
なんとまぁ藤原鎌足と言ったら、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に「大化の改新」なるクーデターを謀った御仁。
その娘でありながら、天武天皇の夫人となった。
もう誰が味方で誰が敵なのか、よぉわからんし、ヽ((◎д◎ ))ゝ
調べれば調べるほど、
当時のスターたちがぼこぼこ芋づる式に引っ張り出されてきて、
収拾が着かない。(((( ;°Д°))))
古代の底なし沼や~。
(天智天皇 ネットより拝借)
(天武天皇 ネットより拝借)
(大友皇子 ネットより拝借)
(十市皇女は選択しかねたので、2つネットより拝借)
↓
とにかく、
天武天皇の長女の「十市皇女」と、
天武天皇の奥さんのうちの一人である「氷上ノ夫人」が
ここら辺に葬られたらしい(?)。
↑
明治維新以後辺り一帯荒れて、禰宜さんたちも離散。(*^o^*)/~
築地塀のみ残るという寂しい状態だったのを、
有志によってここまで再建(?)したらしい。
道路に沿って新しく作られたであろう塀が、
昔ながらの表札(?)を隠すまいとばかりに、
涙ぐましい造りになっていた。Σ(~∀~||;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
新薬師寺の直前に現れたのは、「鏡神社」。
↓
坂を上りきったあたりということもあって、
奥がちょっとこんもりしている。
「鏡神社摂社 比売神社(ヒメガミシャ) (旧比売塚ヒメヅカ)
御祭神 十市皇女 脇座 市寸嶋比売(イキキシマヒメ)」
ここは十市皇女を祀っている。
先ほどの赤穂神社は十市皇女の葬られた所で、
ここはお祭りしてある所なのか~
……と思って通り過ぎたのだが、( ̄□ ̄;)
後日調べたら、どうやら違うみたい!Σ(・ω・ノ)ノ!
「比売神社(ヒメガミシャ)とは」、「比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に建てられている。鏡神社の摂社である。」(byウィキペディア)
だって。
春日大社本殿の「第三殿」を移築したものらしい?Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
つまり、
ちょっとこんもりしたこの小山が「古墳」であり、
ここにこそ十市皇女が葬られてあり、
そこに、春日大社の本殿の一部の鏡神社を移築し、
「鏡神社」として十市皇女を祭っている……
ってことか?
つまり、
さきほどの赤穂神社は、伝承で“十市皇女たちが葬られたのは、ここら辺らしい”として神社が建てられてあった……というだけのことか?
よくわからーん!ヽ(;´Д`)ノ
鏡神社の脇には、
「神像石(カムカタイシ)」なる岩が祭られてあり、意味あり気だったが、
柵越しにしか覗けないのでよく見えない。(((( ;°Д°))))
↑
説明板には、
大友皇子(弘文天皇)の曽孫である淡海三船(オウミノミフネ)が、
「四面楚歌の中にありながら、曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を顕彰せられ、孝養を賛え四代にわたる御姿石を勧請し……」
とある。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
天皇家に詳しくない私はチンプンカンプンである。┐( ̄ヘ ̄)┌
後日調べたら、
社殿の正面向かって左側に、男女がむつまじく肩を寄せあっている像が彫られた高さ1.5mぐらいの石があり、その左に「神像石(かむかたいし)」という、大友皇子・十市皇女から淡海三船までの4代とそれぞれの妃を祀った石が置かれている。
(byウィキペディア)
のだそうだ。
石が4つもあったのか……。見エンヨ。┐( ̄ヘ ̄)┌
垣根と柵に阻まれて、いったいいくつの石が置かれているのかもわからなかったぞ。
↓
で、
なんなんだ?
どうして自分達の姿を石に託す必要があったのだ?
石庭でもあるまいに。
姿を現した石を残したからなんだってーの?
……って気がするのだが。
いや、自分たちを石に託してみるのは、
案外自然な発想かも?
最近でも、TVドラマ「家政婦のみた」で、
幼い女の子が石に自分の家庭のメンバーをなぞらえていたではないか。
「これは、お父さん石、これはお母さん石……」というように、
「家族の石」を作っていたではないか。( ´艸`)
“姿石”とは、
自分たちがここにあるという、なにか自分たちの存在を確固としたものとさせたいような、
そんな願いを込めた性質のものかもしれない。
「四代にわたる御姿石」とは、
曽祖父から曽孫まで。
おそらく、
“弘文天皇(大友皇子)-葛野王―池辺王―淡海三船”ということなのだろう。
現代に生きる私には、「葛野王」も「池辺王」も全く聞いたこともない名前であったが、
天武天皇のパワー全開の時代にあって、
“天下取り”に負けた天智天皇系の大友皇子~三船らの人生は、
壬申の乱以降、日の当たらない辛いものだったのかもしれない(?)。
「四面楚歌の中」とはそういう意味かな? ヨーワカランガ。f^_^;
(ネットより拝借 淡海三船)
曾おじいさんの大友皇子(弘文天皇)は、
天皇になるべき立場にいたのに天皇になれず、
(「弘文天皇」とは後に付けられた名前で、即位したという事実はなさそう。)
無念の最期を遂げた。
しかるべき墓もなし。(はっきりこれ!と絞りきれないらしい。)
曾お婆さんの十市皇女さえ赤穂辺りにひっそりと埋葬された。
曾おじいさん以降、どんなに頑張ろうにも、冴えなかった。
自分もこのまま、やがて虚しく跡形もなく消えていくだろう。
人々の記憶にも残るまい。
しかし、曾おじいさんもおじいさんも父も私も
その時代を一生懸命生きたのだ。
権力争いに敗れただけで、
人として立派に生きたことに変わりはない。
世が世なら、天皇たる一族の我々なのだ……
なんて思いを、石を並べながら思ったのだろうか。
でも、三船は日本初の漢詩集『懐風藻』を編集した人なんだから、
大仕事を任せられた超優秀な人として認められていた
……ってことかも???
おまけ:
大友王子は実は自害しておらず、
首実検には違う首が出され、
ご本人と十市皇女は実は千葉まで逃げ延びて、
千葉で暮らし、千葉で亡くなった……という大友皇子伝説もあるらしい。Σ(・ω・ノ)ノ!
千葉に墓もあるらしい。
「番外編 大友皇子伝説」
となると、
私が見てきた「赤穂神社」や「鏡神社」はなんなんなん~?ヽ((◎д◎ ))ゝ
神社も伝説も
てんでんばらばらばらばらばらーど♪
ふみふみ歩くそれもまたよし。
つづく
6 奈良散策 テンプルバラード
(2012年1月末の旅行日記です。日記はつづくよ、どこまでも。
だらだらだ~、ら・だらだらだ~、ら・だら・だら・だーらー、だっ・らっ・ら~♪)
久保本家酒造の酒蔵見学&試飲会を終えた後は、
ほろ酔いのまま、新薬師寺を目指した。
去年は白毫寺(びゃくごうじ)を訪れたのだが、
すぐそばに新薬師寺があったのに、うっかりスルー!
今年こそ、新薬師寺!
近鉄奈良駅前からバスも出ているが、
本数もさほど多くないので、
ほろほろ歩いていくことに。
薬師寺を求め歩く道々、
小さな神社がぽこぽこ点在していた。
赤穂神社(アコウジンジャ)――
天武天皇6年(678年)に十市皇女(トオチノヒメミコ)を、
天武天皇10年(682年)に氷上(ヒカミ)ノ夫人(←ウィキペディアでは「氷上娘」とされている)を、
「赤穂」の地に葬る……
と、日本書紀に書かれているらしく、
“その赤穂とはこのあたりだろう”と看板に記されている。(=◇=;)
十市皇女(トオチノヒメミコ)とは、
天武天皇を父、額田王を母として生まれた天武天皇の第一皇女。
大友皇子(弘文天皇)の正妃。(・∀・)
大友皇子(第39代、弘文天皇)は、
天智天皇を父、伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)を母として生まれた天智天皇の第一皇子。(・∀・)
天智天皇と天武天皇は兄弟なのだから、十市皇女と大友皇子は従兄弟同士。(=◇=;)
そして、
大友皇子は「壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自殺する(byウィキペディア)」。
大海人皇子(天武天皇)は、長女の夫でもある甥を自殺に追い込んだわけだ。∑(゚Д゚)
十市皇女はそんな中でどんな最期を遂げたのだろう?
父と夫が滅ぼし合うなんて、身を裂かれる思いだったろうに……。
氷上ノ夫人は、
「 藤原鎌足の子。大原大刀自の姉。天武天皇の夫人で、但馬皇女の母。日本書紀には「氷上娘」「氷上夫人」として見える(byウィキペディア)。」と。(=◇=;)
なんとまぁ藤原鎌足と言ったら、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に「大化の改新」なるクーデターを謀った御仁。
その娘でありながら、天武天皇の夫人となった。
もう誰が味方で誰が敵なのか、よぉわからんし、ヽ((◎д◎ ))ゝ
調べれば調べるほど、
当時のスターたちがぼこぼこ芋づる式に引っ張り出されてきて、
収拾が着かない。(((( ;°Д°))))
古代の底なし沼や~。
(天智天皇 ネットより拝借)
(天武天皇 ネットより拝借)
(大友皇子 ネットより拝借)
(十市皇女は選択しかねたので、2つネットより拝借)
↓
とにかく、
天武天皇の長女の「十市皇女」と、
天武天皇の奥さんのうちの一人である「氷上ノ夫人」が
ここら辺に葬られたらしい(?)。
↑
明治維新以後辺り一帯荒れて、禰宜さんたちも離散。(*^o^*)/~
築地塀のみ残るという寂しい状態だったのを、
有志によってここまで再建(?)したらしい。
道路に沿って新しく作られたであろう塀が、
昔ながらの表札(?)を隠すまいとばかりに、
涙ぐましい造りになっていた。Σ(~∀~||;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
新薬師寺の直前に現れたのは、「鏡神社」。
↓
坂を上りきったあたりということもあって、
奥がちょっとこんもりしている。
「鏡神社摂社 比売神社(ヒメガミシャ) (旧比売塚ヒメヅカ)
御祭神 十市皇女 脇座 市寸嶋比売(イキキシマヒメ)」
ここは十市皇女を祀っている。
先ほどの赤穂神社は十市皇女の葬られた所で、
ここはお祭りしてある所なのか~
……と思って通り過ぎたのだが、( ̄□ ̄;)
後日調べたら、どうやら違うみたい!Σ(・ω・ノ)ノ!
「比売神社(ヒメガミシャ)とは」、「比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に建てられている。鏡神社の摂社である。」(byウィキペディア)
だって。
春日大社本殿の「第三殿」を移築したものらしい?Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
つまり、
ちょっとこんもりしたこの小山が「古墳」であり、
ここにこそ十市皇女が葬られてあり、
そこに、春日大社の本殿の一部の鏡神社を移築し、
「鏡神社」として十市皇女を祭っている……
ってことか?
つまり、
さきほどの赤穂神社は、伝承で“十市皇女たちが葬られたのは、ここら辺らしい”として神社が建てられてあった……というだけのことか?
よくわからーん!ヽ(;´Д`)ノ
鏡神社の脇には、
「神像石(カムカタイシ)」なる岩が祭られてあり、意味あり気だったが、
柵越しにしか覗けないのでよく見えない。(((( ;°Д°))))
↑
説明板には、
大友皇子(弘文天皇)の曽孫である淡海三船(オウミノミフネ)が、
「四面楚歌の中にありながら、曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を顕彰せられ、孝養を賛え四代にわたる御姿石を勧請し……」
とある。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
天皇家に詳しくない私はチンプンカンプンである。┐( ̄ヘ ̄)┌
後日調べたら、
社殿の正面向かって左側に、男女がむつまじく肩を寄せあっている像が彫られた高さ1.5mぐらいの石があり、その左に「神像石(かむかたいし)」という、大友皇子・十市皇女から淡海三船までの4代とそれぞれの妃を祀った石が置かれている。
(byウィキペディア)
のだそうだ。
石が4つもあったのか……。見エンヨ。┐( ̄ヘ ̄)┌
垣根と柵に阻まれて、いったいいくつの石が置かれているのかもわからなかったぞ。
↓
で、
なんなんだ?
どうして自分達の姿を石に託す必要があったのだ?
石庭でもあるまいに。
姿を現した石を残したからなんだってーの?
……って気がするのだが。
いや、自分たちを石に託してみるのは、
案外自然な発想かも?
最近でも、TVドラマ「家政婦のみた」で、
幼い女の子が石に自分の家庭のメンバーをなぞらえていたではないか。
「これは、お父さん石、これはお母さん石……」というように、
「家族の石」を作っていたではないか。( ´艸`)
“姿石”とは、
自分たちがここにあるという、なにか自分たちの存在を確固としたものとさせたいような、
そんな願いを込めた性質のものかもしれない。
「四代にわたる御姿石」とは、
曽祖父から曽孫まで。
おそらく、
“弘文天皇(大友皇子)-葛野王―池辺王―淡海三船”ということなのだろう。
現代に生きる私には、「葛野王」も「池辺王」も全く聞いたこともない名前であったが、
天武天皇のパワー全開の時代にあって、
“天下取り”に負けた天智天皇系の大友皇子~三船らの人生は、
壬申の乱以降、日の当たらない辛いものだったのかもしれない(?)。
「四面楚歌の中」とはそういう意味かな? ヨーワカランガ。f^_^;
(ネットより拝借 淡海三船)
曾おじいさんの大友皇子(弘文天皇)は、
天皇になるべき立場にいたのに天皇になれず、
(「弘文天皇」とは後に付けられた名前で、即位したという事実はなさそう。)
無念の最期を遂げた。
しかるべき墓もなし。(はっきりこれ!と絞りきれないらしい。)
曾お婆さんの十市皇女さえ赤穂辺りにひっそりと埋葬された。
曾おじいさん以降、どんなに頑張ろうにも、冴えなかった。
自分もこのまま、やがて虚しく跡形もなく消えていくだろう。
人々の記憶にも残るまい。
しかし、曾おじいさんもおじいさんも父も私も
その時代を一生懸命生きたのだ。
権力争いに敗れただけで、
人として立派に生きたことに変わりはない。
世が世なら、天皇たる一族の我々なのだ……
なんて思いを、石を並べながら思ったのだろうか。
でも、三船は日本初の漢詩集『懐風藻』を編集した人なんだから、
大仕事を任せられた超優秀な人として認められていた
……ってことかも???
おまけ:
大友王子は実は自害しておらず、
首実検には違う首が出され、
ご本人と十市皇女は実は千葉まで逃げ延びて、
千葉で暮らし、千葉で亡くなった……という大友皇子伝説もあるらしい。Σ(・ω・ノ)ノ!
千葉に墓もあるらしい。
「番外編 大友皇子伝説」
となると、
私が見てきた「赤穂神社」や「鏡神社」はなんなんなん~?ヽ((◎д◎ ))ゝ
神社も伝説も
てんでんばらばらばらばらばらーど♪
ふみふみ歩くそれもまたよし。
つづく