2010年2月の長崎旅行記の続きです。
これでおしまいです。
長崎さるく16 グラバー邸
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
さて、長崎観光名所として超有名なグラバー邸なれど、
私にとっては知らないことばかり。(((( ;°Д°))))
しかも、その敷地は広大で広大で、
しかも、色々な建物がいくつもあって、(°Д°;≡°Д°;)
訳わからないまま、とにかく突入。
敷地内は動く歩道でまず一番上まで上っていき(階段で上っていくことも可)、
後は見学しながら、階段などで徐々に出口まで降りてくるように造られていた。
随分逞しげに
クリスマスローズがわさわさ咲いていた。
まず現れた建物は旧三菱第2ドックハウス。
↓
かつて修理船の乗組員の休息宿泊施設として利用していたものを、この山の上に移築したらしい。
↑
碇。
グラバー園の敷地内には、
主だった邸宅が
山の上の方から、
旧オルト邸、
旧リンガー邸、
旧ウォーカー邸と位置しており、
そして、
最も下に位置しいているのがグラバー邸だ。
もともと建っていたそれらの洋館をひと括りに囲って、
さらに
当時港周辺の山の手に建てられていた洋館を数棟移築して、
グラバー園としたようだ。
オルトさんもリンガーさんもウォーカーさんも、当時の貿易商人らしい。
リンガーと言ったら長崎ちゃんぽんのフランチャイズ店リンガーハットと何か関係あるのかしらん?
(……と思って、今調べたら、やっぱりリンガーハットはリンガーさんを意識したネーミングらしい。リンガーさんが造ったちゃんぽん屋さんという訳ではないのね。(=◇=;))
みなさん、長崎で大活躍した人々のようだが、
もっとも偉業を陰に日向に行ったのはグラバーさんではないのかしら?
でも、グラバー邸は中でも一番低い位置にあるのがなぜなのか?
日本に住み着いたのが早い順に、山の一番上の方を取ったのだろうか?
フリーメイソン・ロッジの石柱がなぜここに?
……などと、ちまちました疑問は
グラバー園をうろうろ歩いているだけでは全然わからないのであった。(><;)
説明がどれも断片的で、全体がわかりにくい。
「じやがたらお春」の歌碑もそうだったが、
観光名所の説明って、もっと工夫できないものか。┐( ̄ヘ ̄)┌
漫然と当時の建築物の様子やインテリアの様子や
暮らしぶりは多少窺えたが、
私にはわかりにくい観光名所であったよ。
しかし、とにかく園内の植木や、港を見下ろす眺めは気持ちよく、
それでよしとした。
注:以下、グラバー園内の写真ですが、訳わからないまま回っているので、
内容がございません。アシカラズ。(。-人-。)
↑
港の眺めがよい。
コチョコチョ
うりゃぁぁぁ!
↑
水を用いたオブジェ(噴水?)。
↑
ジャコモ・プッチーニ像「あ~る晴れた~日~に~♪」
↑
眺めのよいテラス。贅沢な造り。
↑
ここでも立派な蘇鉄が!
長崎は蘇鉄がよく育つ土地のようだ。
↑
「最後の隠れキリシタン」
みなさん、ご高齢ですな。
彼らが大浦天主堂にマリア像を求めてカミングアウトしに現れた隠れキリシタンだろうか?| 壁 |д・)
↑
カラタネオガタマ――「花にバナナのような香りがあります。」
にょ~~~~。
↑
これは、貝の花咲く亀……?(=◇=;)
どほぉぉぉぉ!
モハモハですが、何か?
↑
グラバー邸内。龍馬と密談したとされる屋根裏部屋の入り口。| 壁 |д・)
↑
丁度、クイーンメリー2号なる豪華客船が寄港して、
日暮れ頃から船内ではパーティが始まったらしく、
楽隊の音も賑やかに港に響いていた。
木が多いから鳥も多い♪
カクッカクッとほぼ直角に曲がっている枝枝の木。
こ、これはっ!Σ(・ω・ノ)ノ!
これこそは、
もしや楷書の元となったという「楷」の木では?キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!
と気色ばんで近づくと、
「ホルトの木」とな。(ノ_・。)
参照:「ホルトの木」
楷の木とは違うみたい……。
がっかり……。
私は楷の木がいかなるものがわが目で見てみたいのだ。
楷書のお手本となったというように、角角とした枝をしている木だと聞いていたが、
そんな愉快な木が本当にあるのだろうか?( ´艸`)
樹木辞典で探しても今まで見つけることができないでいた。
が、
ここでハタと気づいた。( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚
「楷」の木をネットで調べればいーんだ!(←今まで気づかなかったアフォ!)
↓
参照:「楷の木」
ありぃ???
楷の木より、ホルトの木の方が、よっぽど“楷書”っぽいんですけど……????(^_^;)
(楷の木のイメージが壊れた瞬間。。。)
最後になったが、グラバーさんについて、
ガイドブックの説明を挙げておく。
トーマス・ブレーク・グラバーってどんな人?
安政6年(1859)21歳で来日したグラバーは、2年後にグラバー商会を設立。生糸から船舶まで幅広い商品を扱いつつ、諸藩に武器を売り巨額の利益を得た。そのかたわら、坂本龍馬や高杉晋作をかくまったのではないかと言われている。また、伊藤博文の英国留学を手伝い、薩長同盟にも貢献。現・三菱造船所第二工場建設や高島炭鉱の開発、麒麟ビールの前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を創立するなど、数多くの事業を成功させる。これらの功績により、外国人初の勲二等旭日賞を受賞。73歳、多くの人々に惜しまれ、東京の私邸で生涯を閉じる。以外は長崎の浦上・坂本国際墓地に埋葬された。
21歳で来日してこの働き!(=◇=;)
すごい!
よく言えば、グラバー氏も、明治維新を可能にした1人と言えそうだ。
ってか、明治維新を実際に誘導した1人じゃないのか?って気がしてきた。
でも、武器商人でもあるわけで、
諸藩に武器を売りつけ、諸藩同士戦争状態にさせ、自分はそれで儲けて…
って考えると、日本を食い物にした西欧人の1人という気もしてくる。
が、
73歳で亡くなるまで日本に住んでいたようで、
「成功」を収めた後も帰国せず
人生の殆どを日本で過ごしたってことは、
彼は日本を愛していたのかしら?
近代日本の基礎部分を造った人でもあるのは確かだ。
本日は
彼に敬意を表して、キリンビールを飲むことにしよう。
さるけばさるく程、謎や疑問がいっぱいの長崎であった。
歴史が凝縮されているから、
1度訪れただけでは、
まっさらの予習なしの状態では
とても太刀打ちできそうにない街であったよ。ヽ(;´ω`)ノ
最後にこの長崎さるく旅でひと言叫ぶとすると、
「ベストウェスタンプレミアホテル長崎」の朝食で用意されている
鯛茶漬けは最高~~~~~~~~~~!!!!!
です。(-^□^-)
おしまひ
今回も、長いダラダラ日記、
根気強くおつきあいくださり、どうもありがとうございました。(。-人-。)
これでおしまいです。
長崎さるく16 グラバー邸
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
さて、長崎観光名所として超有名なグラバー邸なれど、
私にとっては知らないことばかり。(((( ;°Д°))))
しかも、その敷地は広大で広大で、
しかも、色々な建物がいくつもあって、(°Д°;≡°Д°;)
訳わからないまま、とにかく突入。
敷地内は動く歩道でまず一番上まで上っていき(階段で上っていくことも可)、
後は見学しながら、階段などで徐々に出口まで降りてくるように造られていた。
随分逞しげに
クリスマスローズがわさわさ咲いていた。
まず現れた建物は旧三菱第2ドックハウス。
↓
かつて修理船の乗組員の休息宿泊施設として利用していたものを、この山の上に移築したらしい。
↑
碇。
グラバー園の敷地内には、
主だった邸宅が
山の上の方から、
旧オルト邸、
旧リンガー邸、
旧ウォーカー邸と位置しており、
そして、
最も下に位置しいているのがグラバー邸だ。
もともと建っていたそれらの洋館をひと括りに囲って、
さらに
当時港周辺の山の手に建てられていた洋館を数棟移築して、
グラバー園としたようだ。
オルトさんもリンガーさんもウォーカーさんも、当時の貿易商人らしい。
リンガーと言ったら長崎ちゃんぽんのフランチャイズ店リンガーハットと何か関係あるのかしらん?
(……と思って、今調べたら、やっぱりリンガーハットはリンガーさんを意識したネーミングらしい。リンガーさんが造ったちゃんぽん屋さんという訳ではないのね。(=◇=;))
みなさん、長崎で大活躍した人々のようだが、
もっとも偉業を陰に日向に行ったのはグラバーさんではないのかしら?
でも、グラバー邸は中でも一番低い位置にあるのがなぜなのか?
日本に住み着いたのが早い順に、山の一番上の方を取ったのだろうか?
フリーメイソン・ロッジの石柱がなぜここに?
……などと、ちまちました疑問は
グラバー園をうろうろ歩いているだけでは全然わからないのであった。(><;)
説明がどれも断片的で、全体がわかりにくい。
「じやがたらお春」の歌碑もそうだったが、
観光名所の説明って、もっと工夫できないものか。┐( ̄ヘ ̄)┌
漫然と当時の建築物の様子やインテリアの様子や
暮らしぶりは多少窺えたが、
私にはわかりにくい観光名所であったよ。
しかし、とにかく園内の植木や、港を見下ろす眺めは気持ちよく、
それでよしとした。
注:以下、グラバー園内の写真ですが、訳わからないまま回っているので、
内容がございません。アシカラズ。(。-人-。)
↑
港の眺めがよい。
コチョコチョ
うりゃぁぁぁ!
↑
水を用いたオブジェ(噴水?)。
↑
ジャコモ・プッチーニ像「あ~る晴れた~日~に~♪」
↑
眺めのよいテラス。贅沢な造り。
↑
ここでも立派な蘇鉄が!
長崎は蘇鉄がよく育つ土地のようだ。
↑
「最後の隠れキリシタン」
みなさん、ご高齢ですな。
彼らが大浦天主堂にマリア像を求めてカミングアウトしに現れた隠れキリシタンだろうか?| 壁 |д・)
↑
カラタネオガタマ――「花にバナナのような香りがあります。」
にょ~~~~。
↑
これは、貝の花咲く亀……?(=◇=;)
どほぉぉぉぉ!
モハモハですが、何か?
↑
グラバー邸内。龍馬と密談したとされる屋根裏部屋の入り口。| 壁 |д・)
↑
丁度、クイーンメリー2号なる豪華客船が寄港して、
日暮れ頃から船内ではパーティが始まったらしく、
楽隊の音も賑やかに港に響いていた。
木が多いから鳥も多い♪
カクッカクッとほぼ直角に曲がっている枝枝の木。
こ、これはっ!Σ(・ω・ノ)ノ!
これこそは、
もしや楷書の元となったという「楷」の木では?キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!
と気色ばんで近づくと、
「ホルトの木」とな。(ノ_・。)
参照:「ホルトの木」
楷の木とは違うみたい……。
がっかり……。
私は楷の木がいかなるものがわが目で見てみたいのだ。
楷書のお手本となったというように、角角とした枝をしている木だと聞いていたが、
そんな愉快な木が本当にあるのだろうか?( ´艸`)
樹木辞典で探しても今まで見つけることができないでいた。
が、
ここでハタと気づいた。( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚
「楷」の木をネットで調べればいーんだ!(←今まで気づかなかったアフォ!)
↓
参照:「楷の木」
ありぃ???
楷の木より、ホルトの木の方が、よっぽど“楷書”っぽいんですけど……????(^_^;)
(楷の木のイメージが壊れた瞬間。。。)
最後になったが、グラバーさんについて、
ガイドブックの説明を挙げておく。
トーマス・ブレーク・グラバーってどんな人?
安政6年(1859)21歳で来日したグラバーは、2年後にグラバー商会を設立。生糸から船舶まで幅広い商品を扱いつつ、諸藩に武器を売り巨額の利益を得た。そのかたわら、坂本龍馬や高杉晋作をかくまったのではないかと言われている。また、伊藤博文の英国留学を手伝い、薩長同盟にも貢献。現・三菱造船所第二工場建設や高島炭鉱の開発、麒麟ビールの前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を創立するなど、数多くの事業を成功させる。これらの功績により、外国人初の勲二等旭日賞を受賞。73歳、多くの人々に惜しまれ、東京の私邸で生涯を閉じる。以外は長崎の浦上・坂本国際墓地に埋葬された。
21歳で来日してこの働き!(=◇=;)
すごい!
よく言えば、グラバー氏も、明治維新を可能にした1人と言えそうだ。
ってか、明治維新を実際に誘導した1人じゃないのか?って気がしてきた。
でも、武器商人でもあるわけで、
諸藩に武器を売りつけ、諸藩同士戦争状態にさせ、自分はそれで儲けて…
って考えると、日本を食い物にした西欧人の1人という気もしてくる。
が、
73歳で亡くなるまで日本に住んでいたようで、
「成功」を収めた後も帰国せず
人生の殆どを日本で過ごしたってことは、
彼は日本を愛していたのかしら?
近代日本の基礎部分を造った人でもあるのは確かだ。
本日は
彼に敬意を表して、キリンビールを飲むことにしよう。
さるけばさるく程、謎や疑問がいっぱいの長崎であった。
歴史が凝縮されているから、
1度訪れただけでは、
まっさらの予習なしの状態では
とても太刀打ちできそうにない街であったよ。ヽ(;´ω`)ノ
最後にこの長崎さるく旅でひと言叫ぶとすると、
「ベストウェスタンプレミアホテル長崎」の朝食で用意されている
鯛茶漬けは最高~~~~~~~~~~!!!!!
です。(-^□^-)
おしまひ
今回も、長いダラダラ日記、
根気強くおつきあいくださり、どうもありがとうございました。(。-人-。)