2010年2月の長崎旅行記の続きです。
ラストまであと少しっ!あせる


長崎さるく14 「発見」された長崎港!+「じゃがたらお春」補足

「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁




ランタン祭りだ、亀山社中跡だ、軍艦島だと、
幕末から近現代に渡る観光名所をつらつらと「さるいて」ばかりで、走る人
私は長崎ついて全然知らずに帰ってきてしまった。(/ω\)



旅行後、ウィキペディアやガイドブックだけでは目にしなかった長崎の歴史について、びっくりの記事を見つけた。叫び

参照:
長崎四方山話(ヨモヤマバナシ)


なんといっても聞き捨てならなかったのは、
「長崎開港は、1571年である。1570年、伴天連たちは良港長崎を発見した。長崎はポルトガル人によって発見され、ポルトガル人のために港を開いて町建てを行った得意な町である。メモ
というもの。(……「得意」は「特異」の誤植だろう。(^_^;))


長崎は、
初めから日本人が開いた町や港ではなく、
外人によって「発見」された港!?( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚
ポルトガル人が発見するまで、当地を統治していた日本人は
その海が港として適していることにも気づかず、町も作らず
放っておいたということか?ヽ((◎д◎ ))ゝ
日本はまだまだ未開の地に満ちていたということか?ビックリマーク


私は“日本人によって既に港として活用されていた長崎港”に、外国船が来るようになった……とばかり思い込んでいた……。ガーン




私の故郷横浜港は、開国時に作られた港。
日米修好通商条約によって、それまでさびれたような浜であった横浜が、
「水深がある」などの理由で、無理やり外国船を迎える港として発展。アップ
港町もそれにともない幕府掛かりで開発されていったことは知っていたが、
横浜をそうした港としようと決めたのは日本人のはず。グー
(住民との揉め事が起こらないように、最初の予定地から横浜に変更したのだ。)
外国人によって「発見」された港ではない(はず)。あせる


考えたら、日本には諸外国の「黒船」がやってくるまで、巨大な船舶が入り込める深い水深のある港など必要なかったのだね。ひらめき電球
黒船の登場によって、それに見合う港を初めて探すことになったということなのだろう。船
“大きな船舶用の港”探し、これは日本人による“新たな日本探し”と言えることだったのかもしれない。サーチ


外国船が停泊できるほどの水深をもつ良港として、
「開港」ということになると、それに付随して町は発展していく。
外国人のために。

充分な水深。海に迫った小高い山々に囲まれているという地形。
外国人のための宿泊所、館、食堂、
外国人のための商店、娯楽施設などが港町を形成していく。
外国人のための墓地も、教会もできる。
中華街もできる。

外国人のための港町は
貿易が盛んになることで、目新しいものが手に入る最先端の場所として
流行発信の地ともなる。キラキラ
古いことに囚われない、新しい自由な雰囲気も生まれる。キラキラ
異国情緒が漂う美しい町であり、なおかつ現代的である。キラキラ

ほとんどのものが“外国人のため”のものであっても、
結果、日本もそれに合わせて栄えていくのであれば、
港とは世界への出口であり、
世界の文化の入り口でもある、ありがたい場である。キラキラ



私は子供の頃、子供ながらに横浜市歌が好きだった。音譜
(何かというと必ず歌わされたという教育のせいかもしれないが。)
小中高校の校歌は忘れても、横浜市歌だけはいまだに歌える。にひひ



↑ネットより拝借


参照:ウィキペディア「横浜市歌」(作詞:なんと!森林太郎【鴎外】えっ

わが日の本は島国よ 朝日輝ふ海に晴れ
連り峙つ島々なれば あらゆる国より舟こそ通え船

されば港の数多かれど 此横浜に勝るあらめや
むかし思へばと苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし処けむり

今は百舟百千舟 泊まる処そ見よや小舟船ヨット救命浮き輪
果なく栄えて行くらん御代を 飾る宝も入り来る港♪♪♪


名前も「横」なんてついているくらいだから、もともとはあまりありがたい感じの浜ではなかったのだろう。ダウン
荒れた掘っ立て小屋くらいしか建っていない寂しげで貧しげな冴えない浜に過ぎなかった横浜が、いまや外国船が行きかい、珍しいものがたくさん入ってくる。アップ
トレンディな港町、横浜、万歳!クラッカー
……みたいな感じを、この歌を歌いながら感じていた。にひひ


横浜がいかに発展してきたナウい(←死語)町であるかは、折りあるごとに教え込まれてきた気がするが、
横浜を開港させるに至った「日米修好通商条約」がいかに不平等な条約だったかは一切教えられてこなかった!((>д<))
(私自身気にも掛けて来なかったよ。)


欧米列強の圧力により無理やりに開国、開港させられてきた日本。
開国以前は必要としていなかった大型船舶用の港の調査、発掘、開発。
“まずは外国人のために!”と
不平等な状況下で造られてきた港町だということは、
改めて考えて、結構ショックだ。ガーン


しかも、長崎港の歴史はもっと古く、
“ポルトガル人が発見した”となると、
日本人はそれまで何をしてたの? と、不思議でならない。汗
いぁ、「発見・発展」以降も、
日本人は何をしてたの? と、不思議でならない。汗



1500年代終盤、「制韓」の野望を持って豊臣秀吉が九州(博多)に来なければ、
「イエズス会全盛」の長崎の「実情」を耳にすることもなかったかもしれない。
そうしたら、内戦状態の日本は、じわじわとポルトガル人により侵食、感化され、混血も進んで、“ポルトガル日本”となっていただろうか?(=◇=;)


バテレン追放令を出した秀吉。
秀吉の目には、当時の長崎は、ポルトガルによって侵略、融合されて見えたのではないだろうか。
当時、ポルトガル商人や宣教師らによって日本人が奴隷として買われていくという由々しき事態もあったらしい。(((゜д゜;)))
ポルトガル商人を隔離するために」造った孤島、出島
秀吉にしたら、出島もバテレン追放令も“日本を守る必死の策”だったのかもしれない。( ̄_ ̄ i)




しかし、その前に、なぜ「島原の乱」が起こったのか、
日本人が日本で幸せに暮らすということはどういうことなのか、
日本はどうあるべきか、
まず考えるべきではなかったのだろうか?(>_<)
(当時は「日本」などという概念すらなかったかもしれないが……。あせる



出島は、“ポルトガル人を隔離する場所”だけではなく、
西洋学術の発祥地」となったわけだもんね。ラブラブ
西洋の学術、知識によって日本は多くの恩恵も得てきたんだもんね。
異国との交流の光と影、キラキラ星空天使U
どの時代にもそれは表裏一体……。
ただ時代によってどちらにスポットが当たるかの違いなんだろう。



余談だが、

先日TV番組でテレビ
浴室の壁に取り付ける照明を温泉
led照明と白熱電球とで比較していた。ひらめき電球

led電球は光線が直線的で、明るい範囲が限られていて、
取り付けられた壁上部の範囲しか照らさない。
つまり光が拡散しないから、
浴室の足元、洗い場のあたりは薄暗い。

白熱電球はその点、光が拡散し広範囲を照らすので、
浴室全体が明るくなる。ひらめき電球

時代とともに光と影の出来方も変わってきていることであるね。(=◇=;)


ledの方が省エネで推奨されているが、
港同様、
その光と影の特性をよく知らなければならないぞ……(-_☆)
と思う私であった。

                         つづく





「じゃがたらお春」の補足説明

先日、「じゃがたらお春」について私なりの解釈を書いた(「長崎さるく10じゃがたらお春」のだが、
私は「じゃがたらお春」の母親が、「長崎貿易商人の娘」(洗礼名しかわかっていない)とあるので、日本人とばかり思っていたのだが、
長崎四方山話」では、お春の母親は「イタリア人」と説明している。Σ(~∀~||;)

わたし的には、「長崎の貿易商の娘」と言ったら「日本人」(せいぜいハーフ)で、
「イタリア人の母をもつお春」というのは、「イタリア人の父をもつお春」の間違いではないのか?と思うのだが……。ヽ(;´Д`)ノ

ま、こういう説もあるということを補足しておかねば……と思った次第である。まいどー!!