2010年2月の長崎旅行記、続けます。
長崎さるく6 中国寺 興福寺
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
長崎は観光名所がたくさんあって、2泊3日では回りきれない。
まず目指すは亀山社中跡。
しかし、その途中に一風変わった寺があったので寄ってみた。
派手な彩りの張子(?)の狛犬が一対!Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
(↑向かって左)こちらが多分オス?
(↑向かって右)こちらは多分メス?
こんな紙細工の狛犬なんて初めて見た。(=◇=;)
ふざけた寺なんだろうか……と一瞬構えたが、
アニハラカンヤ、由緒正しき中国寺だった。
(この狛犬も、今思えば、長崎名物ランタンの1つとして作られてあるものかもしれない気がする……。)
*狛犬に関しては、とてもおもしろいサイトがあるので、そちらを参照してください。
→縁MADOKAさん「狛犬の謎 古代史漫談」
日本で最古の黄檗宗の寺院、興福寺だった。
「隠元禅師が寺に伝えたいんげん豆の発祥の地」でもあるという。
京都の興福寺がそうかと思っていたけれど、
京都へ行く前に、隠元さんはまずここ長崎に落ち着いたわけだ。(=◇=;)
随分色あせて煤ぼけた山門の裏側に書が掛かっていて、
↓
「中国から来朝した隠元隆琦の初登の地であるため、門の背面梁上には隠元筆『初登宝地(ショトウホウチ)』の扁額が掛かっています。」
これがなんと隠元さんの書なのか!Σ(・ω・ノ)ノ!
本堂の「大雄宝殿」の扁額も隠元さんの書であったらしいが、失われ、現在のものは複製らしい。山門の扁額とは随分字が違う。( ̄□ ̄;)!!
↓
参照:「興福寺」
中国から招いた工匠が作った純中国式建築とのこと。
そういえば、中国ムードがそこかしこに。
アーチ(蛇腹)式「黄檗天井」
↓
「氷裂(ヒョウレツ)式組子の丸窓」(明末期の建築様式)
↓
「氷を砕いたような文様」(=氷裂)。
「釘を使わずに木を組み付ける技術」(=組子)。
細く引き割った木をカンナやミノなどで調整しながら組み立てていったらしい。
とても手間の掛かっているものなのね。(=◇=;)
「創建当時は組子の裏側全面が硝子張りになっていて、陽の光に輝いて、まるでステンドグラスのような美しさだった」
が、
原爆投下の爆風で、本堂は大きく傾げ、この丸窓などはすべて吹き飛んでしまったそうだ。
現在のものは戦後45年かけて修復したものの、硝子の部分は復元できず、板張りになっているとのこと。( ̄□ ̄;)
人々の命や幸せとともに、
二度と復元できない美をも、
原爆は吹き飛ばしたのだ。
お供え物?だろうか、
「仏手柑(ブッシュカン)」なる柑橘類果物が。
↓
インド原産、中国では不老長寿の珍果として珍重されていた由。
仏様の手のようだから、仏手柑。
関東では見かけない果物だ。
掛け軸は「関帝」 「三国志」の登場人物、関羽だ。
ご利益は「商売繁盛、合格成就」。
坐像は「媽祖(マソ)」。
ご利益は、「心願成就、交通安全、旅行安全、厄難削除、縁結び」。
この媽祖さん、実は航海安全の女神さまで、
唐船は船に媽祖さまを祭って航海し、(。-人-。)
無事上陸したら、船から媽祖さまを揚げて、
寺の「媽祖堂」に安置すべく、
行列を作って運んだらしい。
そして、帰るときには、再び媽祖さまを恭しく船へ運び入れて、航海したらしい。Σ(・ω・ノ)ノ!
↑
境内の中ほどに妙な5色の布がはためいていた。
江戸時代、興福寺では、唐船が入港する頃になると、5色の吹流しと
「興福寺」と書いた幟を掲げたらしい。
唐船はこの吹流しや幟を目印に、迷わず入港できたとのこと。
そして、日本に無事入港した唐人たちは、
媽祖さま行列をしながら最寄の寺へ移動したわけだ。
その行列は、銅鑼やラッパを鳴らしていく賑やかなもので、
しかも、十字路では厄払いをしながら進むという珍奇なものなので、
かなり面白そう!( ´艸`)
当時の長崎の人々は、
興福寺の境内に吹流しが掲げられると、
「そろそろ唐船が入る、今日だろうか明日だろうか、またあのおもしろい媽祖行列が観られるばい」
と楽しみにしていたのだとか。
現代だって、かなり見ごたえがあると思う。(-^□^-)
↑
長崎は坂の多い町で、
興福寺までの道も消して平坦ではない。
こんな重たそうな媽祖像を運ぶのもひと苦労だったろう。
しかし、無事の航海に媽祖さまに対する感謝の念が湧いて、
一行の表情は嬉々としていたのではないだろうか。
最初はワケのわからぬ媽祖像であったが、
当時の人々が
賑やかに行列して大切に運んだ海運の女神と思って観ると、
銅鑼やラッパの音、
人々のざわめきで賑わう街道、
青空にはためく5色の吹流し、
港の活気、
そんなものが忍ばれるではないか。( ´艸`)
境内には巨大な蘇鉄も!
樹齢400年とのこと。
↓
この蘇鉄、一対になっているらしく、
この蘇鉄の種を拾うと「良縁、子宝、健康長寿」に恵まれると伝えられてきたという。
で、
山門の手前では、この蘇鉄の種が根付になって売られていた。Σ(・ω・ノ)ノ!
題して「幸福の種」!
↓
自分で拾ってこないとご利益がない気がするが、
とにかく種を手に入れればよしなのかな。
幸福の種を撒く蘇鉄……と思うと、なんともありがたい蘇鉄である。(°∀°)b
ケツギョ。(禅寺で食事を知らせるときに叩く板の魚。)
↓
こんな大きなケツギョは初めて見た。(=◇=;)
玉を咥えているのがオス。
小ぶりで玉を咥えていないメスと一対になっている。
境内の脇の方に、三江会所門(サンコウカイショモン)なる門があって、
(これも門以外は原爆で吹き飛ばされたらしい)、
「豚返しの敷居」があった。
↓
放し飼いの豚が門内に入らないように敷居が高くなっているのだが、
高さは20~30cm? さほど高くない。
こんなんで豚が乗り越えられないのだろうか?
ところで、寺の境内に豚など放し飼いにされていたのだろうか?
などという私の疑問に答えてくれる説明はないのであった。┐( ̄ヘ ̄)┌
山門をくぐってすぐ突き当たりのところに
斉藤茂吉の歌碑あり。
斉藤茂吉は長崎医大教授として長崎に住んでいたことがあったらしい。
↓
長崎の
昼しづかなる
唐寺や
思ひいづれば
白き
さるすべりの花
茂吉もこの興福寺を訪れたのね。
甚だしい字余りを犯しつつ歌われた百日紅の花。
茂吉の興福寺の思い出は、
樹齢400年の蘇鉄ではなく、
「白い百日紅の花」だったのか。(`・ω・´)ゞ
どの百日紅なのだろう? と探すも、
茂吉の心に残ったであろう百日紅らしい百日紅は見当たらず、
歌碑の後ろに
さして大きくもない
ライトをぐるぐる巻きにされた百日紅が……。
↓
……
これ、ですか……?
百日紅の木はともかくも、
中国寺興福寺、面白うございました。
隠元さんと隠元豆に感謝。о(ж>▽<)y ☆
つづく
長崎さるく6 中国寺 興福寺
「さるく」=「ぶらぶら歩く」の長崎弁
長崎は観光名所がたくさんあって、2泊3日では回りきれない。
まず目指すは亀山社中跡。
しかし、その途中に一風変わった寺があったので寄ってみた。
派手な彩りの張子(?)の狛犬が一対!Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
(↑向かって左)こちらが多分オス?
(↑向かって右)こちらは多分メス?
こんな紙細工の狛犬なんて初めて見た。(=◇=;)
ふざけた寺なんだろうか……と一瞬構えたが、
アニハラカンヤ、由緒正しき中国寺だった。
(この狛犬も、今思えば、長崎名物ランタンの1つとして作られてあるものかもしれない気がする……。)
*狛犬に関しては、とてもおもしろいサイトがあるので、そちらを参照してください。
→縁MADOKAさん「狛犬の謎 古代史漫談」
日本で最古の黄檗宗の寺院、興福寺だった。
「隠元禅師が寺に伝えたいんげん豆の発祥の地」でもあるという。
京都の興福寺がそうかと思っていたけれど、
京都へ行く前に、隠元さんはまずここ長崎に落ち着いたわけだ。(=◇=;)
随分色あせて煤ぼけた山門の裏側に書が掛かっていて、
↓
「中国から来朝した隠元隆琦の初登の地であるため、門の背面梁上には隠元筆『初登宝地(ショトウホウチ)』の扁額が掛かっています。」
これがなんと隠元さんの書なのか!Σ(・ω・ノ)ノ!
本堂の「大雄宝殿」の扁額も隠元さんの書であったらしいが、失われ、現在のものは複製らしい。山門の扁額とは随分字が違う。( ̄□ ̄;)!!
↓
参照:「興福寺」
中国から招いた工匠が作った純中国式建築とのこと。
そういえば、中国ムードがそこかしこに。
アーチ(蛇腹)式「黄檗天井」
↓
「氷裂(ヒョウレツ)式組子の丸窓」(明末期の建築様式)
↓
「氷を砕いたような文様」(=氷裂)。
「釘を使わずに木を組み付ける技術」(=組子)。
細く引き割った木をカンナやミノなどで調整しながら組み立てていったらしい。
とても手間の掛かっているものなのね。(=◇=;)
「創建当時は組子の裏側全面が硝子張りになっていて、陽の光に輝いて、まるでステンドグラスのような美しさだった」
が、
原爆投下の爆風で、本堂は大きく傾げ、この丸窓などはすべて吹き飛んでしまったそうだ。
現在のものは戦後45年かけて修復したものの、硝子の部分は復元できず、板張りになっているとのこと。( ̄□ ̄;)
人々の命や幸せとともに、
二度と復元できない美をも、
原爆は吹き飛ばしたのだ。
お供え物?だろうか、
「仏手柑(ブッシュカン)」なる柑橘類果物が。
↓
インド原産、中国では不老長寿の珍果として珍重されていた由。
仏様の手のようだから、仏手柑。
関東では見かけない果物だ。
掛け軸は「関帝」 「三国志」の登場人物、関羽だ。
ご利益は「商売繁盛、合格成就」。
坐像は「媽祖(マソ)」。
ご利益は、「心願成就、交通安全、旅行安全、厄難削除、縁結び」。
この媽祖さん、実は航海安全の女神さまで、
唐船は船に媽祖さまを祭って航海し、(。-人-。)
無事上陸したら、船から媽祖さまを揚げて、
寺の「媽祖堂」に安置すべく、
行列を作って運んだらしい。
そして、帰るときには、再び媽祖さまを恭しく船へ運び入れて、航海したらしい。Σ(・ω・ノ)ノ!
↑
境内の中ほどに妙な5色の布がはためいていた。
江戸時代、興福寺では、唐船が入港する頃になると、5色の吹流しと
「興福寺」と書いた幟を掲げたらしい。
唐船はこの吹流しや幟を目印に、迷わず入港できたとのこと。
そして、日本に無事入港した唐人たちは、
媽祖さま行列をしながら最寄の寺へ移動したわけだ。
その行列は、銅鑼やラッパを鳴らしていく賑やかなもので、
しかも、十字路では厄払いをしながら進むという珍奇なものなので、
かなり面白そう!( ´艸`)
当時の長崎の人々は、
興福寺の境内に吹流しが掲げられると、
「そろそろ唐船が入る、今日だろうか明日だろうか、またあのおもしろい媽祖行列が観られるばい」
と楽しみにしていたのだとか。
現代だって、かなり見ごたえがあると思う。(-^□^-)
↑
長崎は坂の多い町で、
興福寺までの道も消して平坦ではない。
こんな重たそうな媽祖像を運ぶのもひと苦労だったろう。
しかし、無事の航海に媽祖さまに対する感謝の念が湧いて、
一行の表情は嬉々としていたのではないだろうか。
最初はワケのわからぬ媽祖像であったが、
当時の人々が
賑やかに行列して大切に運んだ海運の女神と思って観ると、
銅鑼やラッパの音、
人々のざわめきで賑わう街道、
青空にはためく5色の吹流し、
港の活気、
そんなものが忍ばれるではないか。( ´艸`)
境内には巨大な蘇鉄も!
樹齢400年とのこと。
↓
この蘇鉄、一対になっているらしく、
この蘇鉄の種を拾うと「良縁、子宝、健康長寿」に恵まれると伝えられてきたという。
で、
山門の手前では、この蘇鉄の種が根付になって売られていた。Σ(・ω・ノ)ノ!
題して「幸福の種」!
↓
自分で拾ってこないとご利益がない気がするが、
とにかく種を手に入れればよしなのかな。
幸福の種を撒く蘇鉄……と思うと、なんともありがたい蘇鉄である。(°∀°)b
ケツギョ。(禅寺で食事を知らせるときに叩く板の魚。)
↓
こんな大きなケツギョは初めて見た。(=◇=;)
玉を咥えているのがオス。
小ぶりで玉を咥えていないメスと一対になっている。
境内の脇の方に、三江会所門(サンコウカイショモン)なる門があって、
(これも門以外は原爆で吹き飛ばされたらしい)、
「豚返しの敷居」があった。
↓
放し飼いの豚が門内に入らないように敷居が高くなっているのだが、
高さは20~30cm? さほど高くない。
こんなんで豚が乗り越えられないのだろうか?
ところで、寺の境内に豚など放し飼いにされていたのだろうか?
などという私の疑問に答えてくれる説明はないのであった。┐( ̄ヘ ̄)┌
山門をくぐってすぐ突き当たりのところに
斉藤茂吉の歌碑あり。
斉藤茂吉は長崎医大教授として長崎に住んでいたことがあったらしい。
↓
長崎の
昼しづかなる
唐寺や
思ひいづれば
白き
さるすべりの花
茂吉もこの興福寺を訪れたのね。
甚だしい字余りを犯しつつ歌われた百日紅の花。
茂吉の興福寺の思い出は、
樹齢400年の蘇鉄ではなく、
「白い百日紅の花」だったのか。(`・ω・´)ゞ
どの百日紅なのだろう? と探すも、
茂吉の心に残ったであろう百日紅らしい百日紅は見当たらず、
歌碑の後ろに
さして大きくもない
ライトをぐるぐる巻きにされた百日紅が……。
↓
……
これ、ですか……?
百日紅の木はともかくも、
中国寺興福寺、面白うございました。
隠元さんと隠元豆に感謝。о(ж>▽<)y ☆
つづく