川越プチ散策6 ただものじゃない喜多院
喜多院なんて寺があることは、川越の通りで配布されていたパンフレットを手に取るまで知らなかった。(^^ゞ
五百羅漢に惹かれて、急遽訪れた所であったのだが、ここ、ただの寺じゃない!って感じ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
歴史に疎いので、詳細は全然わからないが、なにやら深~いものを秘めているような寺でござった。
まず、入場チケットの裏の紹介文を読むと、あれあれあれ? なのである。
「星野山無量寺喜多院(セイヤサンムリョウジュジ)(通称川越大師喜多院)、天長7年(830)慈覚大師円仁(ジカクダイシエンジン)が復興、寛永15年(1638)川越大火のあと江戸城紅葉山より書院造りの建物を移築(重文)、その他慈恵堂(ジエドウ)(本堂)、多宝塔、山門、慈眼堂(ジゲンドウ)、東照宮、日枝神社などすべて文化財指定。石像五百らかんも有名。」
830年に「復興」って、すっごく古い寺なんだ。――元々仙人《仙芳仙人》が住んでいたらしい。(ノ´▽`)ノ
川越って江戸時代にも「大火」に遭ってるんだ。――実は何度も大火・兵火で焼け落ちてるようだ。
しかも、焼けた後に提供された建物が江戸城のもの?――江戸城とどんな関係が?祭りの神輿の「家光」鍵か?∑(-x-;)
「東照宮」? ――日光東照宮(家康)と関係あるのか?
私の中で「?」が飛び交う。
丁度「宝物特別展」なるものが開催されていて、お宝を拝見することができた。
由緒ある寺社には随分お宝が秘蔵されているものだが、この喜多院のお宝も相当なものであった。
順路が分かりにくくて、自分の見ている部屋が何の「間」だかよくわからないまま、眺め通してきたが、実は3代将軍「家光誕生の間」、「春日局の化粧の間」などであった。Σ(・ω・ノ)ノ!
カスガノツボネ~…イッタイドンナ化粧シテタンダロ?
なぜに川越の喜多院に将軍家所縁のものが、こんなにそっくり移転されているのだろう?
なぜに「家光」? なぜに「春日局」?
と歴史音痴で「?」マックスになっているところに、
「天海僧正」の「歿くなる2月前の坐像」であるという木像が!(行年108歳とも121歳とも135歳とも。ヽ((◎д◎ ))ゝ)
喜多院は昔から時の天皇の庇護を受けて、大火で焼け落ちるたびに復興してきたようだが、慶長4年(1599=関ヶ原の戦いの前年だね)、「比叡山から南光坊天海が入住し」た後は、特に栄えたようだ。
しかも、「元和2年(1616)、家康が没した翌3年境内に東照宮が祭られた。」と!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
しかも、家康が無くなって日光東照宮へ遺体(?)を運ぶとき、この喜多院に寄って、しばし安置されたようだ?Σ(・ω・ノ)ノ!
この喜多院、天皇とも徳川幕府ともタダならぬ関わりがあるように思うのは私だけではあるまい?
家光・春日局・天海僧正・家康……これらの人物。……なにか、ある!
寺には天海僧正の墓まである。その出生地についての説明まであったが、
天海僧正=明智光秀(or明智光秀の息子)という説があることは、私でも知っている。(-_☆)
そして、春日局は家光の乳母。
しかも、明智光秀の部下の娘!
しかも、やがて家康にさえ意見しちゃう大奥の権威者。Σ(~∀~||;)
天海僧正(明智光秀キャモ?)・春日局・家光・家康……天海僧正を明智と想定すると妙に繋がる人間関係が、この喜多院には詰まっているのね。
川越喜多院……江戸幕府にとって、関東の北を守る大切な位置にある寺とされていたようだけど、なぜ川越なんだろう? なぜ喜多院だったのだろう? 謎は謎のまま。((>д<))
この他、圧巻だったお宝は、「職人づくし」という屏風絵だ。
当時の職人さんたちの働く様子が丁寧に描かれていて、とても楽しい。文化的価値も相当高いのではなかろうか。
仏師、傘師、革師、鎧師、経師、糸師、筆師、扇師、研師、鍛冶師、機織師、矢細工師、刀師、縫取師……実に色々な職人がいた。( ̄□ ̄;)
今ではその名を見て、図柄を見ても、一体何を作っているのかわからない職業もあった。
「むかばき師」「こうけつ師」「形置師」などは、いったい何を作っていたのやら?┐( ̄ヘ ̄)┌
(折角のお宝なのだから、せめてカラー版のカタログにしてお土産に買えるようにしてくれればいいのに……。)
↑境内の外にある天海大僧正像(こちらの像は、秘蔵の木像より随分精悍な、若々しい天海である。)
喜多院
http://www.kawagoe.com/kitain/
喜多院:
川越の歴史(4)
「川越には、有名な天海僧正の喜多院がある。天海は、徳川家康以来の将軍の黒幕で、三代将軍家光のころもまだ生きていた。」
「川越が大火災にあった時の藩主は春日局の縁者だった堀田正盛だ。正盛は三代将軍徳川家光と男色の関係にあったともいわれる。」
つづく
喜多院なんて寺があることは、川越の通りで配布されていたパンフレットを手に取るまで知らなかった。(^^ゞ
五百羅漢に惹かれて、急遽訪れた所であったのだが、ここ、ただの寺じゃない!って感じ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
歴史に疎いので、詳細は全然わからないが、なにやら深~いものを秘めているような寺でござった。
まず、入場チケットの裏の紹介文を読むと、あれあれあれ? なのである。
「星野山無量寺喜多院(セイヤサンムリョウジュジ)(通称川越大師喜多院)、天長7年(830)慈覚大師円仁(ジカクダイシエンジン)が復興、寛永15年(1638)川越大火のあと江戸城紅葉山より書院造りの建物を移築(重文)、その他慈恵堂(ジエドウ)(本堂)、多宝塔、山門、慈眼堂(ジゲンドウ)、東照宮、日枝神社などすべて文化財指定。石像五百らかんも有名。」
830年に「復興」って、すっごく古い寺なんだ。――元々仙人《仙芳仙人》が住んでいたらしい。(ノ´▽`)ノ
川越って江戸時代にも「大火」に遭ってるんだ。――実は何度も大火・兵火で焼け落ちてるようだ。
しかも、焼けた後に提供された建物が江戸城のもの?――江戸城とどんな関係が?祭りの神輿の「家光」鍵か?∑(-x-;)
「東照宮」? ――日光東照宮(家康)と関係あるのか?
私の中で「?」が飛び交う。
丁度「宝物特別展」なるものが開催されていて、お宝を拝見することができた。
由緒ある寺社には随分お宝が秘蔵されているものだが、この喜多院のお宝も相当なものであった。
順路が分かりにくくて、自分の見ている部屋が何の「間」だかよくわからないまま、眺め通してきたが、実は3代将軍「家光誕生の間」、「春日局の化粧の間」などであった。Σ(・ω・ノ)ノ!
カスガノツボネ~…イッタイドンナ化粧シテタンダロ?
なぜに川越の喜多院に将軍家所縁のものが、こんなにそっくり移転されているのだろう?
なぜに「家光」? なぜに「春日局」?
と歴史音痴で「?」マックスになっているところに、
「天海僧正」の「歿くなる2月前の坐像」であるという木像が!(行年108歳とも121歳とも135歳とも。ヽ((◎д◎ ))ゝ)
喜多院は昔から時の天皇の庇護を受けて、大火で焼け落ちるたびに復興してきたようだが、慶長4年(1599=関ヶ原の戦いの前年だね)、「比叡山から南光坊天海が入住し」た後は、特に栄えたようだ。
しかも、「元和2年(1616)、家康が没した翌3年境内に東照宮が祭られた。」と!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
しかも、家康が無くなって日光東照宮へ遺体(?)を運ぶとき、この喜多院に寄って、しばし安置されたようだ?Σ(・ω・ノ)ノ!
この喜多院、天皇とも徳川幕府ともタダならぬ関わりがあるように思うのは私だけではあるまい?
家光・春日局・天海僧正・家康……これらの人物。……なにか、ある!
寺には天海僧正の墓まである。その出生地についての説明まであったが、
天海僧正=明智光秀(or明智光秀の息子)という説があることは、私でも知っている。(-_☆)
そして、春日局は家光の乳母。
しかも、明智光秀の部下の娘!
しかも、やがて家康にさえ意見しちゃう大奥の権威者。Σ(~∀~||;)
天海僧正(明智光秀キャモ?)・春日局・家光・家康……天海僧正を明智と想定すると妙に繋がる人間関係が、この喜多院には詰まっているのね。
川越喜多院……江戸幕府にとって、関東の北を守る大切な位置にある寺とされていたようだけど、なぜ川越なんだろう? なぜ喜多院だったのだろう? 謎は謎のまま。((>д<))
この他、圧巻だったお宝は、「職人づくし」という屏風絵だ。
当時の職人さんたちの働く様子が丁寧に描かれていて、とても楽しい。文化的価値も相当高いのではなかろうか。
仏師、傘師、革師、鎧師、経師、糸師、筆師、扇師、研師、鍛冶師、機織師、矢細工師、刀師、縫取師……実に色々な職人がいた。( ̄□ ̄;)
今ではその名を見て、図柄を見ても、一体何を作っているのかわからない職業もあった。
「むかばき師」「こうけつ師」「形置師」などは、いったい何を作っていたのやら?┐( ̄ヘ ̄)┌
(折角のお宝なのだから、せめてカラー版のカタログにしてお土産に買えるようにしてくれればいいのに……。)
↑境内の外にある天海大僧正像(こちらの像は、秘蔵の木像より随分精悍な、若々しい天海である。)
喜多院
http://www.kawagoe.com/kitain/
喜多院:
川越の歴史(4)
「川越には、有名な天海僧正の喜多院がある。天海は、徳川家康以来の将軍の黒幕で、三代将軍家光のころもまだ生きていた。」
「川越が大火災にあった時の藩主は春日局の縁者だった堀田正盛だ。正盛は三代将軍徳川家光と男色の関係にあったともいわれる。」
つづく