2007年 枯れ紅葉の京都
39東寺(とうじ)
(老母と姉と私との、京都1泊3人旅のつづきです)
京都2日目の午前中、北野天満宮と上七軒を散策して、そそくさとホテルに戻り、チェックアウトをした。
午後の2時に「重森三玲(シゲモリミレイ)庭園」の見学を予約していた(姉の希望)ので、それまでの数時間が空いている。
かさばる手荷物を京都駅のコインロッカーに預けて、近場で見学できるところに行こうということになった。
すると、
京都をしばしば訪れる姉も母も、
「新幹線からあの塔が見えると、ああ、京都に着いたな~♪ と思うのよねぇ~!」という塔がある、という話になった。
それはおそらく「東寺の五重の塔」だという。
新幹線からはいつもその塔を見ているのに、訪れたことは二人ともないと言う。
京都駅のすぐそばにあるはずだ。
ならば、行ってみよう、東寺へ! ということになった。ヾ(@^(∞)^@)ノ
京都駅から歩いても行けそうだが、老母の足を思って、タクシーに乗る。
距離が短かったためか無愛想な運転手さんは、少し走るとすぐに「東寺」の門の前で止まってくれた。
しかし、門の中はずっと駐車場のようになっていて、
ここは本当に東寺か? と戸惑う。
↓
門の奥に寺が見当たらない!
しばらく歩くと、やっと寺の境内らしくなった。
↑
見事な枝垂桜の木が、一人の庭師によって手入れを受けていた。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
次の春に備えて、こうして手をかけてもらっているわけだ。
ビル3~4階ほどの高さはあるのではなかろうか。
たった一人で、補佐もなく、長い梯子1本で黙々と作業する庭師。
空を背に枝を見渡すその姿は、勇壮であった。
かっこいいぞ!
(心の中で拍手!)
↑
庭の向こうに五重の塔が。
これが、東京発のJR新幹線、進行方向左側の車窓から見えるわけだ。
辛うじて1本2本、鮮やかな紅葉を残している木々の向こうに、五重の塔は堂々たる姿で聳えていた。
間近に見ると、なお迫力がある。
この塔の中には、なにやら「曼荼羅の世界」となっているらしいのだが、正月三が日だけしか公開されないらしく、内部の様子は一切わからなかった。
ただただ外から古びた威容に見とれるのみ。(-^□^-)
境内は広々しているのだが、平たい敷地にぽつんぽつんと、どーん、どーん、どーんと堂が配置されていて、何をどこから見学してよいのか、ちょっと戸惑う。!(´Д`;)
↑
金堂。(奥にみえるのはタブン講堂)
「金堂は東寺一山の本堂で延暦15年(796)創建」ですと。
平安京遷都が延暦13年(794)だから、平安京がスタートしてすぐに東寺造営が始まったわけだ。(^o^;)
「天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築」だが、「細部には唐・和風の技術も巧みにとり入れて」いるらしい。
堂内では、薬師如来坐像、日光・月光の両脇侍菩薩像の三尊が見学できた。
桃山時代の大仏師、康正の作だという。
お堂はこれらの仏像を安置するための堂なのだね。ヽ(゚◇゚ )ノ
(↑講堂の重厚な屋根。)
金堂と並び建てられているお堂は、「講堂」で、
そこには数多くの仏像が舞台(?)に並んでいた。
「堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、四天王、梵天、帝釈天の二十一躯の仏像が安置されています。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密教浄土の世界)です」と。
金堂も講堂も、火事や地震などに遭い、消失したり大破したりして再興されたものであるものの、中に安置されている仏像たちはどれもそうした災厄の波に洗われ、時を越え、今もその威容衰えるところがない。(。-人-。)
五重の塔の内部(見学できなかったけれど)といい、どうやらこのお寺、曼荼羅にとてもこだわっているようだ。
金堂、講堂、食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置され、塀で区別された境内は、「そのまま曼荼羅であり密教浄土」であるらしい。(・ω・)/
ほぉぉぉ? だ。 なにがどう曼荼羅状態なのか、私にはとんとわからないが。(^^ゞ
↑
目も覚めるほどの真紅が目に飛び込んできた。
千両でも、万両でもないね。
何かしら?
↑
「ピラカンサス」!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
まぁ、ハイカラなお名前!
由緒正しいお寺にハイカラな植物って、ちょっと違和感があるが、美しいのでよろしかろう。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
参照:「ピラカンサス」は、和名、常盤山櫨子(トキワサンザシ)だった。
↑
堂と同様、木々もぽつぽつぽつ、ドンドンドンと
まばらに植えられているように見えた。
(枝垂桜のある庭園部分を除く。)
こうした堂や植木のあり方が、朴訥且つ剛直な感じがして、
“はやる時代におもねない”というか、
どこかそんな「寺の自負」のようなものを感じた私であった。( ̄▽ ̄)=3
が、
売店には色々な寺社関係の本やらグッズやらが売られていて、∑(-x-;)
曼荼羅模様の下敷き、如来像(?)の描かれたクリアファイル……
などなど。
おみくじと来た日にゃ、
↑
「足腰健康」、「闘病回復」、「対人良運」は、まだわかる。
しかし、
「ささやかな幸せ守」、「なんかいいことある守」たぁ、なんだい?Σ(・ω・ノ)ノ!
↑
「交通安全」、「病気平癒」、「無事成長」は、まだわかる。
しかし、
「トラウマ封じ」たぁ、なんだい?ヽ((◎д◎ ))ゝ
おもねってる、おもねってる! 俗世におもねってる!(=◇=;)
しかし、まぁ、それこそが、衆生をすくう弘法大師の精神かもしれない。| 壁 |д・)
「大師は祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想であるとの信念から、水なきところに池を掘り、橋なき所に橋をかけ、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には食を得る方法を教え、病む者のために良医となられたのであります。」
と、パンフに説明されていた。
高邁な哲理を究め自己完結させるだけではなく、
現実の世界で、その教えを実践する。
現実に人々を救い続けたわけだ。
時代に応じて、人々の苦悩は様変わりする。
生老病死(ショウロウビョウシ)は普遍的だとしても、それに加えて
「トラウマ封じ」も、「ささやかな幸せ」や「なんかいいことある」ことを願う気持ちも、
ある意味迷える衆生の真剣な願いといえるだろう。(。-人-。)
決まりきった言辞で飾られていればいいというものでもあるまい。
こうした俗気たっぷりの、俗世におもねるかに見えるお守にこそ、
人々の祈りの心に答えようという姿勢を感じるではないの。(=⌒▽⌒=)
よきかな、よきかな。
↑
ってことで、
招き猫大好きな私は、
色々なポーズを揃えた招き猫付きおみくじを引いて、
ひそやかな幸せを祈ったのであった。(^人^)
後記:
JR京都駅の南西にあるのに、「東寺」とはこれいかに?
と、初めは不思議に思ったが、
考えたら、平安の昔はJR京都駅なんて存在していなかった。(●´ω`●)ゞ
平安京の正面の門(羅城門=羅生門)の左右に「東寺(トウジ)」「西寺(サイジ)」を建てたらしい。
地図で見たら、東寺の南側の大通り(九条大路)をワンブロック西に行くと、「羅城門跡」がある。
芥川龍之介の小説では「羅生門」とされている門だ。平安の都の正面玄関だったところらしい。
そこを基点にして東側に建てられたから「東寺」なわけだ。(`・ω・´)ゞ
(38へ) つづく (40へ)
39東寺(とうじ)
(老母と姉と私との、京都1泊3人旅のつづきです)
京都2日目の午前中、北野天満宮と上七軒を散策して、そそくさとホテルに戻り、チェックアウトをした。
午後の2時に「重森三玲(シゲモリミレイ)庭園」の見学を予約していた(姉の希望)ので、それまでの数時間が空いている。
かさばる手荷物を京都駅のコインロッカーに預けて、近場で見学できるところに行こうということになった。
すると、
京都をしばしば訪れる姉も母も、
「新幹線からあの塔が見えると、ああ、京都に着いたな~♪ と思うのよねぇ~!」という塔がある、という話になった。
それはおそらく「東寺の五重の塔」だという。
新幹線からはいつもその塔を見ているのに、訪れたことは二人ともないと言う。
京都駅のすぐそばにあるはずだ。
ならば、行ってみよう、東寺へ! ということになった。ヾ(@^(∞)^@)ノ
京都駅から歩いても行けそうだが、老母の足を思って、タクシーに乗る。
距離が短かったためか無愛想な運転手さんは、少し走るとすぐに「東寺」の門の前で止まってくれた。
しかし、門の中はずっと駐車場のようになっていて、
ここは本当に東寺か? と戸惑う。
↓
門の奥に寺が見当たらない!
しばらく歩くと、やっと寺の境内らしくなった。
↑
見事な枝垂桜の木が、一人の庭師によって手入れを受けていた。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
次の春に備えて、こうして手をかけてもらっているわけだ。
ビル3~4階ほどの高さはあるのではなかろうか。
たった一人で、補佐もなく、長い梯子1本で黙々と作業する庭師。
空を背に枝を見渡すその姿は、勇壮であった。
かっこいいぞ!
(心の中で拍手!)
↑
庭の向こうに五重の塔が。
これが、東京発のJR新幹線、進行方向左側の車窓から見えるわけだ。
辛うじて1本2本、鮮やかな紅葉を残している木々の向こうに、五重の塔は堂々たる姿で聳えていた。
間近に見ると、なお迫力がある。
この塔の中には、なにやら「曼荼羅の世界」となっているらしいのだが、正月三が日だけしか公開されないらしく、内部の様子は一切わからなかった。
ただただ外から古びた威容に見とれるのみ。(-^□^-)
境内は広々しているのだが、平たい敷地にぽつんぽつんと、どーん、どーん、どーんと堂が配置されていて、何をどこから見学してよいのか、ちょっと戸惑う。!(´Д`;)
↑
金堂。(奥にみえるのはタブン講堂)
「金堂は東寺一山の本堂で延暦15年(796)創建」ですと。
平安京遷都が延暦13年(794)だから、平安京がスタートしてすぐに東寺造営が始まったわけだ。(^o^;)
「天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築」だが、「細部には唐・和風の技術も巧みにとり入れて」いるらしい。
堂内では、薬師如来坐像、日光・月光の両脇侍菩薩像の三尊が見学できた。
桃山時代の大仏師、康正の作だという。
お堂はこれらの仏像を安置するための堂なのだね。ヽ(゚◇゚ )ノ
(↑講堂の重厚な屋根。)
金堂と並び建てられているお堂は、「講堂」で、
そこには数多くの仏像が舞台(?)に並んでいた。
「堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、四天王、梵天、帝釈天の二十一躯の仏像が安置されています。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密教浄土の世界)です」と。
金堂も講堂も、火事や地震などに遭い、消失したり大破したりして再興されたものであるものの、中に安置されている仏像たちはどれもそうした災厄の波に洗われ、時を越え、今もその威容衰えるところがない。(。-人-。)
五重の塔の内部(見学できなかったけれど)といい、どうやらこのお寺、曼荼羅にとてもこだわっているようだ。
金堂、講堂、食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置され、塀で区別された境内は、「そのまま曼荼羅であり密教浄土」であるらしい。(・ω・)/
ほぉぉぉ? だ。 なにがどう曼荼羅状態なのか、私にはとんとわからないが。(^^ゞ
↑
目も覚めるほどの真紅が目に飛び込んできた。
千両でも、万両でもないね。
何かしら?
↑
「ピラカンサス」!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
まぁ、ハイカラなお名前!
由緒正しいお寺にハイカラな植物って、ちょっと違和感があるが、美しいのでよろしかろう。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
参照:「ピラカンサス」は、和名、常盤山櫨子(トキワサンザシ)だった。
↑
堂と同様、木々もぽつぽつぽつ、ドンドンドンと
まばらに植えられているように見えた。
(枝垂桜のある庭園部分を除く。)
こうした堂や植木のあり方が、朴訥且つ剛直な感じがして、
“はやる時代におもねない”というか、
どこかそんな「寺の自負」のようなものを感じた私であった。( ̄▽ ̄)=3
が、
売店には色々な寺社関係の本やらグッズやらが売られていて、∑(-x-;)
曼荼羅模様の下敷き、如来像(?)の描かれたクリアファイル……
などなど。
おみくじと来た日にゃ、
↑
「足腰健康」、「闘病回復」、「対人良運」は、まだわかる。
しかし、
「ささやかな幸せ守」、「なんかいいことある守」たぁ、なんだい?Σ(・ω・ノ)ノ!
↑
「交通安全」、「病気平癒」、「無事成長」は、まだわかる。
しかし、
「トラウマ封じ」たぁ、なんだい?ヽ((◎д◎ ))ゝ
おもねってる、おもねってる! 俗世におもねってる!(=◇=;)
しかし、まぁ、それこそが、衆生をすくう弘法大師の精神かもしれない。| 壁 |д・)
「大師は祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想であるとの信念から、水なきところに池を掘り、橋なき所に橋をかけ、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には食を得る方法を教え、病む者のために良医となられたのであります。」
と、パンフに説明されていた。
高邁な哲理を究め自己完結させるだけではなく、
現実の世界で、その教えを実践する。
現実に人々を救い続けたわけだ。
時代に応じて、人々の苦悩は様変わりする。
生老病死(ショウロウビョウシ)は普遍的だとしても、それに加えて
「トラウマ封じ」も、「ささやかな幸せ」や「なんかいいことある」ことを願う気持ちも、
ある意味迷える衆生の真剣な願いといえるだろう。(。-人-。)
決まりきった言辞で飾られていればいいというものでもあるまい。
こうした俗気たっぷりの、俗世におもねるかに見えるお守にこそ、
人々の祈りの心に答えようという姿勢を感じるではないの。(=⌒▽⌒=)
よきかな、よきかな。
↑
ってことで、
招き猫大好きな私は、
色々なポーズを揃えた招き猫付きおみくじを引いて、
ひそやかな幸せを祈ったのであった。(^人^)
後記:
JR京都駅の南西にあるのに、「東寺」とはこれいかに?
と、初めは不思議に思ったが、
考えたら、平安の昔はJR京都駅なんて存在していなかった。(●´ω`●)ゞ
平安京の正面の門(羅城門=羅生門)の左右に「東寺(トウジ)」「西寺(サイジ)」を建てたらしい。
地図で見たら、東寺の南側の大通り(九条大路)をワンブロック西に行くと、「羅城門跡」がある。
芥川龍之介の小説では「羅生門」とされている門だ。平安の都の正面玄関だったところらしい。
そこを基点にして東側に建てられたから「東寺」なわけだ。(`・ω・´)ゞ
(38へ) つづく (40へ)