2007年 枯れ紅葉の京都
30 大覚寺(旧嵯峨御所)
(老母と姉と私との、京都1泊3人旅のつづきです)
念仏寺が私の念願の寺だったとも気づかず、
一歩も足を踏み入れることなく、
立て札の前で回れ右して山を降りた。
下り坂の途中で、1本、本道から反れて山の方へ上っていく坂道があり、沢山の車がそちらに向っていた。
名優、大河内傳次郎(オオコウチデンジロウ)の別荘、「大河内山荘」への道だった。( ̄□ ̄;)
彼が「30年の歳月にわたりこつこつと創り上げた風光明媚な借景庭園」があるそうだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
今回、母が行きたいと言っていた所だ。
しかし、母は「もう疲れちゃっし、時間もあまりないから、別に寄らなくていいわ。」ときた。Σ(~∀~||;)
第一希望の場所なのに?
あなたの情熱はそんなものか?(-""-;)
実は最初からそんなに行きたくなかったのか?(`ε´)
などと責めることもなく、「あ、そぅ?(・_・;)」と、みんな納得。
で、タクシーは大河内山荘への道へは入らず、坂を下り続けた。
おそらくタクシーの運転手さんの“お薦め”と姉の趣味で決まったのだろう。
次にタクシーが止まったのは大覚寺だった。
(私はとにかく渡月橋の夜景が見られればよいので、あとはどこに行こうがエニシング、オゲ!状態。)
「嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治二年(一三〇七)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の媾和が成立した。」
天皇系のお寺だ。
となると、インテリアは豪華絢爛……のはずだが、なぜか全然記憶にない。┐( ̄ヘ ̄)┌
覚えているのは……
境内をうろうろしていた
平安貴族(鎌倉か?)のお姫様(?)たち。(=⌒▽⌒=)
↓
お寺の人? モデルさん?
いやいや、
よく見ると着付けが随分ぞんざいだ。
片手にカメラなど持っている。
どうみても一般観光客。
どうやら大覚寺では、レンタル衣装で平安(?)ファッションを楽しめる企画があるようだ。
面白そ~♪ 私も着てみたい~♪
が、
着物を着ているのは、若い女の子ばかり。
…………やめとくか。チェ(-_-メ
そして、
色褪せた天井画。
↓
一見ぱぁっと華やかな感じがするのだが、よく見るとかなり色褪せていた。当初はさぞ鮮やかだったろうに。(^o^;)
そして、
外廊下の柱に設置されていた文明の覇者、
電気のスイッチ。ヽ(;´Д`)ノ
↓
随分目立つ。
古い建物に現代の電気系統の工事は大変だろうけど、こうあからさまだと、ちょっと興ざめ。
他の寺では目につかなかったけれど、みなさん、どうなさっているのだろう?
色々な都合で、ここにこんな大きなスイッチを付けざるを得なかったのだろうけれど、
……目障りだなぁ……。(-з-)
そして、
これまた、風雅な一画に馴染まぬ赤い消火器。
↓
こうした文化財の消防設備は、これまでに重々検討されているのだろうが、
消火器が目につく所に置いてあるのは、よいことなのだろうが、
……目障りだなぁ……。(-з-)
もっとも印象的だったのは庭に広がっていた大沢池。(オオサワノイケ)
説明看板によると……
「大沢池
庭湖(テイコ)ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています 池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(コセイカナオカ)が配置したといわれる庭湖石があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています 遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前の山は朝原山(遍照寺山)です
この観月台からの仲秋の名月は有名で
松尾芭蕉の
名月や池をめぐりて夜もすがら
と句にも詠まれています」 (←句読点のない文章だった。(^^ゞ)
「また左手奥には多宝塔や藤原公仕(フジハラキントウ)が詠んだ
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
の名古曽の滝の石組み跡があります
また平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられる名勝に指定されています」
↑
周囲1kmという大きな池は、山並みに守られていた。
山並みがやや遠くに見えるので、余計池が広く見える気がする。
↑
水鳥たちが一斉に着水して、いっとき池を賑わし、また水面が静まっていく。
水面の空は段々暮れてきた。
暮れゆくときの水面は一段と趣深い。
この水面に月が映ったら、どんな風に見えるのだろう。
芭蕉は、ここで一晩中池を巡っていたのだろうか?
↑
暮れていく、暮れていく、嵯峨野の空が。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
どうも私の視線は、俗で、
ど~でもいいところ(むしろ見てはいけないところ?)に目がとまる。
なので、大覚寺の有名な襖絵も見た記憶がない。( ̄Д ̄;;
お宝を目の前にしていても、気づかずに素通りしている虞大だ。
(↑勅封心経殿チョクフウシンギョウデン)
見学しているときは、
境内の隅の方にポツリと、小さな夢殿もどきがあるぞ~♪(* ̄Oノ ̄*)
こんなもの、いったい何のために造ってあるのかしら? パチリ
と思っていたが、
日記をまとめる今になって、パンフレットをよくよく読んだら、
嵯峨天皇始めとして、他5人の天皇の写経が収められているお堂だと分かった。Σ(・ω・ノ)ノ!
そんな貴重なものが奉祀されているとは夢にも思わなかった。ヽ((◎д◎ ))ゝ
嵯峨天皇といえば、日本の3大能書家の一人だ。
「弘仁九年の春、日本国中に疫病が流行して多くの死者が出」たとき、「嵯峨天皇はこれに深く心を痛められて、弘法大師の上奏により、一字三礼(イチジサンライ)の誠を尽くし般若心経一巻を浄書(ジョウショ)されたところ、たちまちに効験(コウゲン)があらわれ、疫病はおさまった」
(↑ 当時は、念仏(。-人-。)を唱えるより写経だったんだね。)
この時の嵯峨天皇の写経がお堂の中にしまってあるというのだから、驚きだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
嵯峨天皇以来、「国家の異変、天災のたび、国民の苦しみを救うために写経」がなされ、現在も「全国幾千万の方々が心願をこめて般若心経を浄写し、奉納して口説くを積まれておられます。」だそうだ。( ̄□ ̄;)
写経って、「願」をかけてするものだったのね……。(=◇=;)
ま、写経をしたからといって疫病が治ったり、願が叶ったりするわけないとは思うが、ざわめく心を落ち着かせるのには、写経というのはとてもいいかもしれない。千羽鶴を折るのに似ているかしらん。
ここ大覚寺も
下調べをしてゆっくり見れば、見応えたっぷりのお寺だったよ。(^_^;)
↓
参考:
大覚寺公式HP http://www.daikakuji.or.jp/kedai/index.html
JTB 大覚寺 http://www.daikakuji.or.jp/kedai/index.html
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30 大覚寺(旧嵯峨御所)
(老母と姉と私との、京都1泊3人旅のつづきです)
念仏寺が私の念願の寺だったとも気づかず、
一歩も足を踏み入れることなく、
立て札の前で回れ右して山を降りた。
下り坂の途中で、1本、本道から反れて山の方へ上っていく坂道があり、沢山の車がそちらに向っていた。
名優、大河内傳次郎(オオコウチデンジロウ)の別荘、「大河内山荘」への道だった。( ̄□ ̄;)
彼が「30年の歳月にわたりこつこつと創り上げた風光明媚な借景庭園」があるそうだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
今回、母が行きたいと言っていた所だ。
しかし、母は「もう疲れちゃっし、時間もあまりないから、別に寄らなくていいわ。」ときた。Σ(~∀~||;)
第一希望の場所なのに?
あなたの情熱はそんなものか?(-""-;)
実は最初からそんなに行きたくなかったのか?(`ε´)
などと責めることもなく、「あ、そぅ?(・_・;)」と、みんな納得。
で、タクシーは大河内山荘への道へは入らず、坂を下り続けた。
おそらくタクシーの運転手さんの“お薦め”と姉の趣味で決まったのだろう。
次にタクシーが止まったのは大覚寺だった。
(私はとにかく渡月橋の夜景が見られればよいので、あとはどこに行こうがエニシング、オゲ!状態。)
「嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治二年(一三〇七)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の媾和が成立した。」
天皇系のお寺だ。
となると、インテリアは豪華絢爛……のはずだが、なぜか全然記憶にない。┐( ̄ヘ ̄)┌
覚えているのは……
境内をうろうろしていた
平安貴族(鎌倉か?)のお姫様(?)たち。(=⌒▽⌒=)
↓
お寺の人? モデルさん?
いやいや、
よく見ると着付けが随分ぞんざいだ。
片手にカメラなど持っている。
どうみても一般観光客。
どうやら大覚寺では、レンタル衣装で平安(?)ファッションを楽しめる企画があるようだ。
面白そ~♪ 私も着てみたい~♪
が、
着物を着ているのは、若い女の子ばかり。
…………やめとくか。チェ(-_-メ
そして、
色褪せた天井画。
↓
一見ぱぁっと華やかな感じがするのだが、よく見るとかなり色褪せていた。当初はさぞ鮮やかだったろうに。(^o^;)
そして、
外廊下の柱に設置されていた文明の覇者、
電気のスイッチ。ヽ(;´Д`)ノ
↓
随分目立つ。
古い建物に現代の電気系統の工事は大変だろうけど、こうあからさまだと、ちょっと興ざめ。
他の寺では目につかなかったけれど、みなさん、どうなさっているのだろう?
色々な都合で、ここにこんな大きなスイッチを付けざるを得なかったのだろうけれど、
……目障りだなぁ……。(-з-)
そして、
これまた、風雅な一画に馴染まぬ赤い消火器。
↓
こうした文化財の消防設備は、これまでに重々検討されているのだろうが、
消火器が目につく所に置いてあるのは、よいことなのだろうが、
……目障りだなぁ……。(-з-)
もっとも印象的だったのは庭に広がっていた大沢池。(オオサワノイケ)
説明看板によると……
「大沢池
庭湖(テイコ)ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています 池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(コセイカナオカ)が配置したといわれる庭湖石があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています 遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前の山は朝原山(遍照寺山)です
この観月台からの仲秋の名月は有名で
松尾芭蕉の
名月や池をめぐりて夜もすがら
と句にも詠まれています」 (←句読点のない文章だった。(^^ゞ)
「また左手奥には多宝塔や藤原公仕(フジハラキントウ)が詠んだ
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
の名古曽の滝の石組み跡があります
また平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられる名勝に指定されています」
↑
周囲1kmという大きな池は、山並みに守られていた。
山並みがやや遠くに見えるので、余計池が広く見える気がする。
↑
水鳥たちが一斉に着水して、いっとき池を賑わし、また水面が静まっていく。
水面の空は段々暮れてきた。
暮れゆくときの水面は一段と趣深い。
この水面に月が映ったら、どんな風に見えるのだろう。
芭蕉は、ここで一晩中池を巡っていたのだろうか?
↑
暮れていく、暮れていく、嵯峨野の空が。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
どうも私の視線は、俗で、
ど~でもいいところ(むしろ見てはいけないところ?)に目がとまる。
なので、大覚寺の有名な襖絵も見た記憶がない。( ̄Д ̄;;
お宝を目の前にしていても、気づかずに素通りしている虞大だ。
(↑勅封心経殿チョクフウシンギョウデン)
見学しているときは、
境内の隅の方にポツリと、小さな夢殿もどきがあるぞ~♪(* ̄Oノ ̄*)
こんなもの、いったい何のために造ってあるのかしら? パチリ
と思っていたが、
日記をまとめる今になって、パンフレットをよくよく読んだら、
嵯峨天皇始めとして、他5人の天皇の写経が収められているお堂だと分かった。Σ(・ω・ノ)ノ!
そんな貴重なものが奉祀されているとは夢にも思わなかった。ヽ((◎д◎ ))ゝ
嵯峨天皇といえば、日本の3大能書家の一人だ。
「弘仁九年の春、日本国中に疫病が流行して多くの死者が出」たとき、「嵯峨天皇はこれに深く心を痛められて、弘法大師の上奏により、一字三礼(イチジサンライ)の誠を尽くし般若心経一巻を浄書(ジョウショ)されたところ、たちまちに効験(コウゲン)があらわれ、疫病はおさまった」
(↑ 当時は、念仏(。-人-。)を唱えるより写経だったんだね。)
この時の嵯峨天皇の写経がお堂の中にしまってあるというのだから、驚きだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
嵯峨天皇以来、「国家の異変、天災のたび、国民の苦しみを救うために写経」がなされ、現在も「全国幾千万の方々が心願をこめて般若心経を浄写し、奉納して口説くを積まれておられます。」だそうだ。( ̄□ ̄;)
写経って、「願」をかけてするものだったのね……。(=◇=;)
ま、写経をしたからといって疫病が治ったり、願が叶ったりするわけないとは思うが、ざわめく心を落ち着かせるのには、写経というのはとてもいいかもしれない。千羽鶴を折るのに似ているかしらん。
ここ大覚寺も
下調べをしてゆっくり見れば、見応えたっぷりのお寺だったよ。(^_^;)
↓
参考:
大覚寺公式HP http://www.daikakuji.or.jp/kedai/index.html
JTB 大覚寺 http://www.daikakuji.or.jp/kedai/index.html
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