2001年夫婦世界旅行のつづきです。8月半ばのバルセロナ3日目。闘牛観戦中です。




part241 闘牛③ マタドールの上手・下手




要約: 闘牛は一晩のうちに何幕か行われる。真打ちのマタドールもだんだんレベルがあがってくる。上手い、下手が、比較するとわかってきた。







闘牛が始まって何回目か、いつの間にか“スペシャル舞台席”の豪華そうな椅子に数人、偉そうな客がついていた。下の値段の高い方の席もかなり埋まってきた。




我々の席、ソルイソンブラ(日向と日陰の半々の席 Sol y Sombra)は最初カンカンに日が照り付けていたが、いつの間にか太陽の厳しさがなくなった。が、日陰に入ったという感じでもない。よくわからない。太陽の直射がなくなったというだけだ。空はまだ明るい。キラキラ





ガシンと鉄柵が開けられて牛が登場し、その牛が刺し殺され、馬に引かれて退場するまでを何幕も見ているうちに、マタドールのレベルも上がってくるのがわかった。




真打ちマタドールにも上手い下手があって、上手なマタドールは実に「見せる」。




牛にもいい牛、悪い牛があって、いい牛は実に見応えがある。ニコニコ




下手なマタドールには、小ぶりの落ち着きのない牛が宛がわれるようだ。牛用の鉄柵から飛び出してくるときも、何を戸惑っているのか、闘牛場の方には来ないで通路の壁に向かってドタドタしていたりする。




係りの男に闘牛場の方へ行くようつつかれたりする。このとき、つつく男も柵にしがみついて自分は牛につつかれないようにかなり及び腰なので、小さいとはいえ、牛はやはりこわいのだなぁと察せられる。




係りの男はなんとか牛を闘牛場へ送り出すと、すかさず鉄柵を閉めて、逃げるように避難所の中へ飛び込むのだった。




係りの男をビビラせる牛でも、闘牛場ではうろたえた感じである。スピードはあるが、むやみやたらと走り回る感じで、風格がない。むっ




下手なマタドールは思いっきり牛に狙われる。腕を横に出して赤い布をひらひらさせるのだが、牛は最初っから布など見向きもせず、マタドールの体のど真ん中目掛けて走っていく。




マタドールは、おいおい、こっちにモロに来るなよ~っとばかり体を横に横にずらす。が、両者の間にはまだまだ距離があるから、牛はマタドールに合わせて進行方向をずらしながら走る。マタドールのど真ん中へと。




で、結局ずりずり移動していくような捌きで、へっぴり腰で、みっともない。牛をなんとかやり過ごすときも、思いっきり腰だけ引けていたりする。観客席は応援する声と非難する声が交じり合ったような、ばらばらな雰囲気。




牛が悪いのか、マタドールが下手なのか。牛をなかなか殺せないマタドールは、見苦しい。急所をつくのは意外と難しいのかもしれない。




何度も刀で刺しているのに、牛には全然利いていないようで、観客席は、「なにやってんだよ~。いい加減にトドメをさせよ~」ってな、ダレた不穏な空気に包まれる。ぐさぐさにして殺すので、残酷さもまして、嫌~なものを見せられた気にさせられるのだ。




急所をはずされると牛は死ぬに死ねず、苦しみ、断末摩のうめきを上げる。ブモ~ッ、ゲヘ~ッと苦しむ。痛ましい。ガーン




中には赤い布を牛の角に奪われるドジなマタドールもいた。牛は奪い取った赤布を憎々しげに脚で踏みにじり、マタドールを睨みつける。




「お前もこの布のようにぐしゃぐしゃにしてやるぜ」と言わんばかりである。やっぱり、相当お怒りのご様子。……そりゃ、そうだね。




慌てて駆けつけたピンクのマタドールたちが、牛の気を引いて真打ちのマタドールから牛を離そうとする。布を失ったマタドールは、まるで当然のようにピンクのマタドール達の影に身を隠す。




が、その腰つきはどこか及び腰で、「とっとと僕ちゃんを隠しておくれ! とっとと僕ちゃんの布を取り戻しておくれっ!」と懇願しているようで、実にみっともない。




砂にまみれた赤い布をピンクのマタドールに拾ってもらったり、自らおそるおそるへっぴり腰で拾う姿も無様だ。




ついさっきまで牛をいたぶるように操っていたスターが、胸を反らせた優雅なポーズが、滑稽に変わる。と、観客席は激しいブーイングで彼を責め立てるのであった。私の隣のおっさんも実に忌々しそうに何か口の中でぶつぶつ言っていた。




“上手いマタドール”用の牛は、“いい牛”だ。恰幅のいい黒光りした、大きな黒曜石の固まりのような牛が登場してくる。牛に風格がある。荒々しさも十分。“親分”っって感じの牛である。“走り”が堂に入っている。グー




戦闘意欲満々である。ふーっ、ふーっ、荒い鼻息がアンダナーダ席まで伝わってくるようだ。怒りが最高潮に達したとき、頭を一段と低く下げて前方の相手をねめつけながら、「行くぞ~。」とばかり、前脚でカッカッカッと地面を蹴り上げた。




うそ~っ。あんな仕草は漫画の世界のことだけだと思っていた。昔のアニメは現実の動物の生態をしっかりと正確に写し取っていたわけだ。……と、緊迫した状況の中で妙なことに感心したりする。




上手いマタドールだと、マタドール自身はほとんど動かず、牛ばかりが赤い布に踊らされて走り回るように見える。観客は大喜びでオーレ、オーレの大合唱が始まる。




(フラメンコのとき、歌手は「オーラ」と合いの手を入れていたが、闘牛では「オーラ」なんだね。どう違うのかしらん?)




鼻息荒い牛の目の前にじりじりと近づき、腕を伸ばして牛の頭をこずいたりするマタドールもいる。それほど牛に近づけるということをアピールしているらしい。




牛は頭を低く下げて、今にも突進しそうな体勢に見えるのだが、マタドールを鼻の先に立たせ、頭をこずかれても、まるで自縛の術にでもかかっているかのように、すぐに動けないでいたりする。




突進してきた牛をやり過ごした後、空振りを食らった牛が振り向き、「こいつ~っ。ちょこちょこ動きやがって。そこにじっとしてろよっ。」と言わんばかりの形相で、再び体勢を整えているのに、くるりとその牛に背を向けてみせるマタドールもいる。




牛に背を向けるということは、やはりいつ襲ってくるかも知れぬ恐怖と隣合わせである。牛に背を向けて悠々と観客席に手を振ってみせると、観客もヤンヤヤンヤの大喝采でそのマタドールを称えるのだった。




観客からオーレ、オーレの大合唱が始まる。荒ぶる牛に対して余裕を見せると、もぉ観客はたまらないらしい。




そして、牛との格闘が華麗なマタドールほど、いかにその牛にトドメをさすかが期待されるようだ。オーレ、オーレの大合唱の中、マタドールがその声援に応えるように一発で牛にトドメの一刀を刺し貫くや、大大喝采。マタドールのブロマイド写真が土産として売れるわけだ。




こういうスターマタドールは、一挙手一投足が美しい。常に胸をしなるように反らせてダンサーのような身ごなし。トドメの一撃を与えると、後は任せたとばかり、すっと牛から身を離す。




もうその牛は死んでいる……といわんばかりに立ち姿も優雅に余裕の身振りで、ピンクのマタドールたちが牛を右へ左へと煽るさまを眺めてみせる。




ピンクのマタドールたちに翻弄されるまでもなく、牛は突然ゴボッと口から血反吐を吐き、よろめいて、ドッと倒れた。スマートな殺し振りである。




しかし、手負いの牛を相手に「華麗な勇気」を見せたとて、それが何ほどのものか、とも思う。




ここまで疲れてきた牛(血を流し続けてへとへとになっている牛)になら、マタドールの華麗なパフォーマンスもさほど不可能なことではないようにも思われる。




よほどのアクシデントがなければ、人間の勝利は99%目に見えている。殺されるために生まれてきた牛が、殺されるために育て上げられ、殺されるために傷めつけられ、煽られる。そんな牛を相手に、しかしマタドールは疲労困憊しているのだ。




生臭い獣の命は人間の度胸試しに浪費される。死ぬに死に切れず、会場に響き渡った牛の断末魔の呻きは人間の身勝手な仕業に対する抗議に聞こえる。




やはり真打ちのマタドールと言えども、牛が怖いのだ。長槍で突かれ、刀を何本も背に刺したまま、背中から腹にかけて血だらけの牛でも、人間にとっては脅威だよね。




そのことを考えると、獣と闘う人間の勇気というものを見せ付けるショーとして、闘牛というのは今までずっと続いてきたのかもしれない。恐ろしい相手に及び腰にならず、技と知恵を駆使して、正々堂々衆人環視の中、戦って見せる――そういう勇気を人々は闘牛ショーからもらって帰るのかもしれない。




あるいは、自分より明らかに強靭なものに対して、そいつをやっつける小気味よさを感じているのかもしれない。





つづく


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