2001年夫婦世界旅行のつづきです。8月。セヴィーリャ3日目。カテドラル、アルカサールを漫然と見学したらもう夕方7時過ぎ。日が暮れ始めます……。





part208 女乞食と私 








要約: 体調の悪い夫は先に宿に帰り、私は一人スーパーへ水を買いに行った。夕暮れ時の路地裏に女一人でうろついているのは女乞食と私だけ。途方もない孤独感にさいなまれ宿に帰ると、妻のことなどな~んも心配していない夫の暢気な回復振り。妻の孤独は滑稽に吹き飛んだ。



このこkkkkklこ











照りつける太陽のもと、スペイン最大のカテドラル、それより広いアルカサールとずっと歩き詰めだったせいか、夫はひどく疲れてしまった。もう歩くのもしんどそうだ。





取りあえず、アルカサールの中のカフェテリアに入って休むことにした。ぐったりと椅子に座ってうつむき、身体を縮込ませている夫を前に、私はただ彼の回復を待つばかりである。





30分ほどして、少し気分が良くなった夫は、そのカフェテリアで夕食を済ましてしまいたいと言い出した。食べるものなど、サンドウィッチぐらいしかないのだが、それでいいと言う。これから夕食の店をわざわざ探すのもうんざりなのだろう。





夫はサンドウィッチ、私はショーケースの中で目に付いたケーキを注文してみた。松の実がケーキの全面を覆っている。一見おいしそうだが、フォークを入れると、スポンジはパッサパサ。そして、その中には、卵の黄味を練ったような甘ったるいペーストがじっとりと塗られていた。卵の黄味の臭みが鼻に付く。げろげろ。薬臭いレモネードで流し込む。げろげろ。ぱさぱさなサンドイッチの方がまだましだったかも……。





夫の頼んだサンドイッチもいかにもぱさぱさでまずそうだった。しかし、彼は珍しく「まずい」とも言わない。まずくて当たり前なのだという諦めに至ったのだろうか。





とにかく胃の粘膜を保護するためには仕方がないと言わんばかりにサンドイッチを黙々とまずそうに胃に押し込み、持参の風邪薬を飲む。そして、再び身を縮こまらせて目をつぶる。眠っているのか?





「しんどいの?」と聞くと、薄目を開け、「大丈夫。ちょっと休憩……。」と言う。そして、もう声を掛けるなと言わんばかりにさらに体を斜に向けて、椅子に身を沈みこませるようにして首を縮め、硬く目を閉じた。冬眠に入ったリスのようだ。(たぶん、リスはこんな感じで冬眠するに違いないって気がする。)





他のテーブルでは、観光客たちが和やかに穏やかにお茶をしている。連れ合いを目の前にして、身を屈めるようにして眠っているカップルなどいない。夫の体調の悪さよりは、なんだか傍目(はため)に惨めなこの状況の方が私には気になるのであった。





我々のテーブルだけが異空間のように感じる。隣のテーブルの人たちに今声を掛けても、私の声も姿も彼らには分からないのではないか? という奇妙な疎外感に襲われる。





しばらくして、カフェテラスの他の客はみんな帰っていった。そろそろ閉館らしい。具合も随分落ち着いたようで、夫がようやく顔を上げ、「そろそろ出ようか……」と、だるそうに席を立った。





もうフラメンコの店を再び訪れる元気もないので、チケットはまた明日探すことにして、宿へそのまま帰ることにした。





宿に帰る直前に、いつもちょいと足を伸ばして、スーパーでミネラルウォーターを買うのだが、今日は夫があまりにしんどそうなので、夫には一足先に宿へ帰ってもらおうと考えた。





スーパーは宿を通り越して、さらに別の路地を10分ほど歩いていかなければならないのだ。なんだかんだで3、40分かかってしまう。





宿の前まで来たら、私は1人でスーパーに行ってくるから、先に宿に入って休んでいるように夫に言ってみた。





初めは「いいよ。僕も一緒にスーパーに行きますよ。」と不機嫌そうに躊躇っていた夫は、私に2度「まだ明るいし、1人で大丈夫だから」と勧められると、「じゃ、先に帰ってるよ。」と、宿に入っていった。





さて、1人になってスーパーへ向かって街を歩く。1人で大通りを渡り、1人で路地へ入る。と、何ともまた情けない気持ちになってきた。





薄暗くなり始めた街は、しかし、まだ夜の賑わいの始まる前で、やはり昼間同様静かなものだった。





「ここは物騒だ、物騒だ。」とヒステリックに繰り返し、鍵の掛かったドアを何度もガシガシ乱暴に押したり引いたりしてみて、椅子をドアの前に置いてバリケードを作り、なお「物騒でいかん!」と繰り返す夫が、妻は1人で日暮れの「物騒な」街中に出すのである。





街を見渡せば、まだ薄明るいとは言え、夜の7時半も過ぎている時刻に、女1人で歩いているのは、ゴミ箱を漁る女乞食と私だけであった。





女乞食と私だけ……そう思うとますます惨めに思えてきた。薄暗い街灯がやけに眩しい……。こんなに惨めな気持ちになるのなら、最初から素直に一緒に行って貰えばいいものだが、あんなにしんどそうなのに、さらに歩かせるのはやはり気の毒だったとも思う。





あるいは、あんなにヒーヒーフラフラしている彼と一緒に歩く方が、返って危険だったかも知れないという気もする。





また、彼の気持ちを確かめたい気もするのだ。自分がどんなにしんどくても、外国の夜(時間的に夜)の街を妻1人歩かせることは心配で出来ない人なのかどうか。 ――全~然平気で、私1人、歩かせてくれたが……。





しかし、よく考えれば、こんなことは今に始まったことではなかった。前にも、同じ状況で同じことがあった。以前にも私はどこかの外国の夜の街を、1人歩いていた。そして、これからもそうだろう。





自然、投げやりな気持ちになる。私がどうなろうと、夫にはどうだっていいのだ。何がどうなろうと、私にはどうだっていいのだ。羽交い絞め強盗よ、来るなら来い。幽霊どもよ、いるなら出てみろ。





しかし、捨て鉢な気持ちになると同時に、前向きな気持ちにもなる。こんな楽しまない気持ちのままでいるよりは、自分に嘘を付いてでも、明るい声を出して明るい態度で夫に接して ――彼はそれをまた“あてこすりだ”とか、“イライラしている”とか取るのだろうか――、これからも旅を続ければいいじゃないか。 ……それしかないのだ?





滑稽な人間だ、私は。とことん……。





夕暮れるセヴィーリャの路地で蠢いているのは女乞食と私だけ! 誰からも案じられることのない女乞食と私……! という孤独感にとっぷりと浸り、蛍光灯も力ない薄暗いほどの安っぽいスーパーでミネラルウォーターを1本買う。こんな暗澹たる気分のときでさえ、釣り銭の小銭に間違いはないかと目を皿のようにして確認する自分がまた滑稽だ。





再び大通りに出ると、すっかり日は暮れて、営業を始めたらしいレストランに賑々しく明かりが灯っていた。楽しげにカップルがその明かりの中へと吸い込まれていったところだ。美味しいんだろうな、これからのふたりの夕餉は……。なんだか、絵を鑑賞するような心持ちで、私は明かりに彩られたレストランの一画をしばし眺めていた。





レストランのすぐそばには、レストランよりも薄暗い小さな飲み屋があり、そこでは男たちばかりが酒を飲んでいた。地元の男たちが一息つきにきているという感じ。





街のそこここで人々が憩い、語らっている。街の隅っこで、女乞食と私がぐずぐず歩いている……。





いや、しかし、私の手にしているのは空のペットボトルでも残飯でもなく、買いたて新鮮の水だぞ。ぬるくなる前に、美味しく飲もう! 宿へ急ごう。





宿に帰ると、夫はズボンを脱ぎ散らかし、早、ベッドで寛いでいた。この男は……。これっぽっちも「妻」のことを心配していなかったな……。またも冷蔵庫が唸りを上げるように私の心が冷え込む。ヴィィィィ~ン。





「ああ、お帰りぃ。水、買えた?」 妻の孤独な歩行など微塵も想像だにしなかったろう暢気な挨拶が、寝転がったままの夫から返ってきた。そして、「ぷっ」と堪えていた笑いを噴き出すように夫の尻が鳴った。この男は……。





あっけに取られてドアの前に立ち尽くしている私に、夫は、えへってな顔して、オナラをしたときの「失礼。」の合図のVサインを作って見せる。 ……この男はっ……。





何なんだ、この男は? ほんの数十分の間に随分回復しているじゃないか。何なんだ、この回復力は? 何だったんだ、あの陰鬱な今日一日は? 私が女乞食と一緒に孤独な夕暮れの歩行にうち沈んでいる間に、宿で寛いで、屁こいて、ご満悦? 妻って、……何? 私って、……何? ええっと……私って、何を落ち込んでいたんだっけ……?????





なんだか今日は気持ちが重たいままふわふわしっぱなしだ。「戸締りをしっかりしてね~」というすっかり寛いだ夫の言葉を遠く聞きながら、ドアに鍵を掛け、椅子でバリケードをして、カバンでさらにバリケードして……やれやれ。呆けた頭をゆらゆらさせて、とりあえずベッドに腰を下ろした、瞬間、ぶっっ。





何だ、何だ? なんで私までオナラしてるんだ? 何なんだ、私は? 何だったんだ、私の孤独はっ? 何だったんだ、女乞食はっ?





………………なにはともあれ、ここはやはり、「失礼。」のVサインを出すべきか否か……とそっと振り返ると、夫がじーっと私を見ていた。





どーして見ていて欲しい時に見ていてくれないで、見ていて欲しくないときに、そうやってじーっと見ているのさっ。この男は……っ!





こうして、最悪な1日は自らのVサインで締めくくった私であった。ああ、なんて、なんて滑稽なのだ、私は。 ……最悪だ。


つづく


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