2001年夫婦世界旅行のつづきです。マドリッド5日目。トレドを散策中です。めぼしい観光スポットはことごとく空振り。やっと開いていたカテドラルにさえ入場を拒否されて……。





part192 エル・グレコ・マジック





要約: トレドは街全体が観光名所だ。「エル・グレコが愛した街」としても知られている。西ゴート王国の都(紀元後560年に遷都)であった町だが、今は満員の観光バスが走り回っていた。そうした興ざめする現実はさておき、古色蒼然とした石で築かれた街並みは、エル・グレコの絵にダブらせて見るせいか、スペイン中の夏の陽差しを集めて輝くような、独特な雰囲気に溢れているのだった。












次々と肩すかしを食らうと、もう何がどうだろうとどうでもよくなる。





地図によると、「カテドラル」の近くには「サン・トメ教会Igresia de Santo Tomé 」がある。聖なるトメ? トメさんという聖人がいたとは、不謹慎ながら何ともおかしい。





ここにはエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」という大作があるという。ふぅん。行ってみましょうか。今度はどうだろう。また入場お断りか? ま、どっちでもいいけど。





もはや名所、旧跡を見学することなどはどうでもよい。ただエル・グレコが愛した街を歩くことが楽しかった。石畳はスペイン中の光を集めて輝いているように眩しい。空は青い。





「カテドラル」からは「市庁舎」を通り過ぎて西に向かって少し行けば「サン・トメ教会」があるはずだ。が、とくに路地に入り込む必要もないはずなのに、またも迷ってしまった。





ようやくそれらしい建物の前まで来たが、散々迷って辿りついたので、目の前の建物が目指すサン・トメ教会なのかどうか、よく分からないのであった。さっきまでは何度か見かけた標識もない。





建物の外観は、教会と言えば教会に見えなくもないが、ただの館と言えばただの館のようでもある。もしかしたら、迷っている間に南へ反れてしまっていて、「エル・グレコの家」あたりまで来ているのかも知れない?





入場券を買うカウンターで係りの人に、「ここはサン・トメ教会ですか?」と尋ねると、係員は何を思ったのか、苦虫をつぶしたようなしかめっ面で、「エル・グレコの絵は一枚きりしかないぞぉ。」と繰り返すばかり。





なんじゃ、このおっさん……? 困っていると、後ろに並んでいた観光客が、「ここはサン・トメ教会ですよ。」と教えてくれた。やれやれ。





偽学生証を差し出してみたら、学生料金で済んだ。やっとトレドの「観光名所」のひとつに入れる。





ガイドブックには 「料金一律200ペセタ(138円)」 となっていたが、我々は学生料金150ペセタ(103円)で済んだのだった。ガイドブックに記載されていなくとも、学生証は見せてみるもんだね。





それにしても、宝の山だったプラド美術館入館料が250セペタだったことを思うと、なんとも法外に高い拝観料だ。





それにしても、1人35円浮かしただけで、どうしてこうも充実感を感じてしまうのかしら……。





さて、館(教会)の奥へ進む……というよりは、扉を開けてとある一室に通される。観光客がぎっしりと押し込められているのでとても狭く感じるが、広さにして40平米あるかどうかというくらいか。天井が高く、部屋と呼ぶよりも「講堂」に近い感じだ。





「教会」というくらいなのだから、教会の「本堂」なのだろうが、それにしては、教会らしい十字架だの、聖書にまつわる絵だの彫刻などもなく、説教台も椅子もない。やっぱり「教会」らしくない。





正面の壁には、高い天井まで届くほどの大きなグレコの作品が一枚。どうやら例の「オルガス伯の埋葬」であるらしい。部屋を埋め尽くす観光客で絵に近づけず、絵の下の方はよく見えない。





どうなることやら……と部屋の奥の壁に張り付くようにして様子を見守っていると、ごそっ、ごそっと一塊ずつ人が減っていく。前の方に出口があるのだった。団体で来ている客が多いらしい。一団が去るごとに少しずつ前へ近づくことができた。





中には日本人観光客の団体さんとそのガイドがいて、日本語で絵の説明をしているので、例によって、つつつと近寄り、少し拝聴させて頂いた。





「司祭の着ている透けた白い羽織がエル・グレコの独特の技法なのです。」――それなら、普通の画家はどう描いていると言うんじゃい? 透けた羽織を描いている人は他にいないのか? 本当か? 





「天井近くに描かれている雲の上の部分は天国を表しているんですよぉ。」――そんなこたぁ、見ればわかるわい!





「聖母マリアの背後に控えているのは聖ペドロで、天国への鍵を握っているのです。」――ほほぉ。それは教えてもらわなければわからないわぃ。天国の入り口には鍵穴の付いた扉があるのか? 天国にも入場時間と退出時間がありそうだ。





ダークブルーの背広を着込んで、年の頃は30前後に見えるが、どこかよれっと疲れた感じの男性ガイドさんは、描かれた一つ一つの意味を唾を飛ばして説明していた。





ちょっと質問してみたかったが、なにせ“盗み聞き”なのでそういうわけにもいかない。誰かが質問してくれればいいのだが、誰も質問ひとつしないで、へぇへぇ聞き入っている。こんな素直な客なら、いくらでもでたらめな説明ができそうだ。





最後に、そのガイドさんは胸を張って、まるで自分の手柄のようにこう言った。「毎年、何百何千と言う観光客が見にくるからこの絵は素晴らしいものなんです。みなさん、この絵を目に出来たことは幸運ですよぉ。」





なんじゃ、そりゃ!? 新興宗教の勧誘じゃあるまいに。何人に鑑賞されようが、その絵の値打ちに関係ないだろう。何千何万という人間の鑑賞に堪えうるということは確かにすごいことだろう。その絵の普遍性を立証していると言ってよい。おそらくそのガイドもそうしたことを言っているつもりのだろう。





が、そのガイドの言い回しには、なんだかカチンときた。目の前の絵が素晴らしいかどうかなんてのは、見る本人が決めることだ。あほっ。





その男の説明する “絵に託されたこまごまとした意味” は分からなくとも、その絵は充分我々にとって印象深いものだった。エル・グレコにはオルガス伯の魂が昇天していくさまが本当に見えたのかもしれない。 (私はエル・グレコの絵の中では、これがさほど傑作だとも思わないのだが、夫は偉く気に入ったようだ。)





しかし、なぜエル・グレコがこれほど大きい絵を描いたのか、ちょっと疑問だ。「オルガス伯」とは何者なのだろう? よほどエル・グレコを支援したパトロンだったのかな? ひょっとしたら、サン・トメ教会も以前はオルガス伯の邸宅だったのではないだろうか? 





……などという埒もない疑問がふつふつと湧くのであるが確かめようもなく、とりあえずはしばし虚心坦懐に絵を味わう。





絵をひとしきり堪能すると、人波に誘導されるように「出口」の扉へと自然と押し出されていく形になって、外へ出た。





それでお仕舞いだった。 ……ここのどこが「教会」なのだろう? やっぱり違和感が残る。





肝心なトメさんはどこにいるのだ? 聖トメは祭られていないのだろうか? もしかしたら、「オルガス伯の埋葬」1枚購入するために、祭壇から燭台、祈りの台からサン・トメの像、イエスの像まで売り払ってしまったんじゃないか?





この教会には「14世紀のムデハル様式(なんじゃ、そりゃ?)の塔がある」とガイドブックにも特筆されていたが、どっしりと聳える四角い塔は外から眺めるのみ。その塔の中には入れないのであった。





何だか、これではエル・グレコが客寄せパンダのようで不愉快だ……なんていう、ちょっと複雑な気分でサン・トメ教会を後にしたのであった。





サン・トメ教会のすぐ近くに「エル・グレコの家と美術館Casa-Museo de El Greco 」があった。と言っても、エル・グレコが当時住んでいた正確な家は分からないので、そこをエル・グレコの家と決めて、当時の部屋のように作り上げたものらしい。なーんだ。





それにしても、これほど世界的に有名な画家の家がなぜわからないのだ? エル・グレコって、ここトレドで本当に幸せだったのか? そう言えば、エル・グレコの墓は名所に入っていないね。彼はトレドで最後を迎えたのではなかったっけ? それなのに、なぜ彼の墓がない……?





墓はともかく、彼の「家」を想定した美術館で、ようやくエル・グレコの色々な作品を見ることができた。





エル・グレコはパステルのような油絵を描く。彼の描く人物は、どれもスペイン人らしい面長で、心弱そうな上目使いをしたものが多い。





人物の弱々しいしい表情と、一点を見つめる視線。天を仰ぐポーズ。パステルをこすりつけたようなねっとりとした色合い。油絵の具にしてはさっぱりと平板なタッチ。エル・グレコは人間の弱点と強靭な心の芯とを描き出そうとしていたように感じられる。





グレコはトレドという街に魅了されて、故郷ギリシャを捨て、終生トレドで過ごしたという。が、その呼び名がエル・グレコ(スペイン語で、「ギリシャ人」という意味)であったことと、本名ではなく通称がまかり通っていることからも、トレドにあった彼の、人生の異邦人としての孤独、欠落観を私は感じてしまう。





私の邪推はさておき、その観光名所のあり方から、今やトレドはエル・グレコの街と言って過言ではない。エル・グレコの絵のせいか、トレドの街だけが、荒野の中で神に選ばれた光降り注ぐ街のようにさえ思えてくる。神の奇跡でも起こりそうな気になる。グレコ・マジックにかかったようだ。もともとはこの街がエル・グレコを魅了したのに。





歩き疲れて再び街の中心地に戻ってきた。石畳の広場の周りにはホテルやらレストランが並んでいる。マクドナルドもあった。レストランにはご自慢の「トレド名物」がいろいろあるそうだが、お高いので、我々は例によってマクドナルドのお世話になることにした。





タイミングよく空いた外のテーブルについて、広場を眺めながら一休みする。マクドナルドも他のレストランやカフェも、どこも満員御礼だ。細い通りを観光バスがひっきりなしに行き来する。まぁ、よくもこれだけ観光客が押し寄せるもんだ。と、自分たちのことは棚にあげて感心する。





西日を受けたトレドの街を、橋を渡って街の外から眺めたかったが、マドリッドにあまり遅く帰ることは危険なので、それ以上の散策は諦め、7時半のバスで帰ることにした。





焦らずゆっくり休み休み歩いたのだが、強烈な陽射しと石畳の照り返し、方向感覚の撹乱、石の坂道は結構応えた。トレドを出るや、グレコ・マジックが解けてしまったのか、風邪を引いていた夫は力尽きたようにぐったりしてしまった。





帰り道はずっと黙り込んで、機嫌が悪そうだ。彼の場合、体調が悪いだけなのだが、“体調”が悪いというよりは“機嫌”が悪く見える。一緒に歩いている私は、端(はた)からなんだか喧嘩でもしているように見られていそうで、落ち着かないのだった。





マドリッドへ着いても、夫はまだ思いっきり怒っているように歩いていく。地下鉄では、泣き喚(わめ)く幼子に、通りすがりにいきなり「うるさいっ!」と怒鳴りかける始末。





幸い、幼子もその母親も日本語など解さなかったので、「いきなり何か喚いたこの黄色い男はなぁに? 」と、ちょっと驚いて見られただけだった。幼子ももちろん泣き止みはしなかった。





私もびっくりして目を丸くしていたので、みんなで「なぁに、今の?」って感じでお互い少々いぶかしんだだけで、歩を止める者もいなかった。やれやれ……。もぉ~。いきなり叫ぶなよっ! 





どうしたの? と聞くと、「だってうるさいんだもん。いつまでも泣かせておくんだもん。」と苛立たしげに答える。やれやれ。人間体調を崩すと余裕がなくなるものだ。





「しかたないでしょ~。子供は泣くのが仕事なのっ! 八つ当たりしないのっ!」 と言うと、むすっと黙り込んだ。むすっとしながら、内心大人気なかったと反省しているね? 顔が穏やかになってきたぞ。





夜はいつものようにデパートの地下で食料品を買い出しする。鰯の酢漬け、生ハム、魚のパテをたっぷり挟み込んだサンドウィッチ。ちょっと予算オーバーではあったが、先日買い込んであったサングリアも添えて、贅沢な夕食となった。





夫よ。今日一日、お疲れ様。たっぷり栄養を摂ったら風邪薬を飲んで、歯ぁ磨いてとっとと寝てくれっ!






追記①:



これはこの日記を書き直すに当たって、改めて調べなおしてわかったのだが、エル・グレコの墓はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグ教会にあるということだ。








追記②: ムデハル様式について










イベリア半島では、レコンキスタによってキリスト教徒がイスラム教徒から土地を奪回した時期がある。 しかし、レコンキスタ後も、イスラム教徒たちやユダヤ教徒がその地にとどまり、建築業に従事することが多かったらしい。で、イスラムと西欧の建築様式が融合したという。それが「ムデハル様式」。ムデハル様式の建物はスペインには多く存在するという。私が目にしたサン・トメ教会の塔は、なにもそこまで角ばらなくっても……と思うくらい、角ばった塔であった。美しさよりは堅牢さを重視した感じであった。


               つづく


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