近年、いくつかの学校は校名変更をして新しい理念のもとに新教育への道を開こうとしている。しかしながら、学校というのは新設校でない限り、多くの同窓生がいることを忘れてはならない。母校の灯火というのは同窓生、卒業生にとって愛着があるものである。「発展的名称変更」、例えば東京音楽学校が東京芸術大学音楽学部になったように昇格のもとに発展を遂げるのは同窓生も喜ぶが、そうでない場合には、同窓生は寂しい思いをするのであり、母校への愛着も絶たれる一因となることを忘れてはならない。東京における音楽早期教育機関の一つであった都立芸術高校は20123月で閉校した。40年の歴史だった。開校初期から7年間教鞭を執っていた私にとっても寂しい限りである。卒業生にとっても母校の閉校ほど寂しいものはなかろう。自分が青春時代を過ごし多くのことを学んだ自分の母校が行政上の種々の事情で閉校になるのは実に残念に違いない。教育活動などは、新宿区富久町22番地にある『東京都立総合芸術高等学校』に受け継がれることになるのだが、これは卒業生から見た場合には全く別の学校なのであるから母校自体は消滅してなくなるわけである。この都立芸術高校は、昭和40年代に都立駒場高校に併設されていた芸術科(音楽科20名と美術科20名のクラス)を分離独立させ発足したものであった。私はこれまで約40年近く様々な学校で教鞭を執ってきたが、閉校になった学校は2校しか経験していない。その一つが平成24331日をもって完全閉校した都立芸術高校である。都立駒場高校芸術科をその前身とし、多くの卒業生、音楽家を輩出してきた都立の名門音楽高校である。私は都立駒場高校時代の卒業生であり、職業柄、都立高校に芸術の専門コースを設置する初期の構想時代のことも歴史記録を調べたのだが、未曾有の原爆体験をした日本は、当時、終戦後の動乱期からの脱却しつつ、文化復興のために、青少年の情操教育の必要性が唱えられていた。その一つに文化興隆の礎として、ヨーロッパが長い伝統の下に育成してきた音楽の早期教育機関の設置を望む声が次第に高まり、当時、東京芸大作曲科教授であったS先生や、同じくソルフェージュの先駆的な存在であったK先生をはじめ、多くの音楽関係者が音楽早期教育機関の設置を強く望まれ、その推進力になられたのだが、その根底には「日本の音楽教育は早期教育が十全でない、ソルフェージュ教育も十全でない」という現状があった。「これからの日本が、世界に通用する音楽家を育成するためには、感性柔軟な多感な若い世代に徹底した音楽教育をしていかなければならない。そのためには鍛錬主義を中心としたレッスン体系や、聴覚の訓練、ソルフェージュ能力の育成、音楽理論の徹底修得を担っていく機関が必要である。」との熱い志をいだいての高等学校課程芸術コース設置構想であった。現状の学校教育のシステムでは義務教育を終えた時期に即座に実施することが望ましかったのである。当時の早期教育提唱者、推進者達は、自分たちの世代に欠如している様々な要因を冷厳に分析され、「自分たちはこういう面が教育上欠如していた。若い世代には自分たちと同じ苦労を背負わさないよう、これらの基礎能力をはやく修得させ自らの音楽基盤にすることが必要である」という共通理念のもとに昼夜を惜しまず音楽早期教育を行う学校の設置準備が積極的に進められたのである。しかし、高等学校に芸術コースを設置するというのは昭和20年代の戦後復興期、自分たちの生活環境を維持していくだけで大変な時代にあっては画期的なことであり、まだ拠出できる国の文化予算もそれほど潤沢ではなく難航したのであるが、当時の行政官の卓越した先見の明あって、様々な困難を乗り越えつつ、国立の芸高に先駆けて昭和25年に、当時、府立第三高女の伝統を受け継ぎ多くの文化人を輩出していた新制都立駒場高校に附設された「芸術科音楽コース」としてその歴史が始まったのである。日本の首都東京で最初の学校体系としての音楽早期教育高校の歴史的誕生の瞬間であった。それを前例として4年後の昭和29年に東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(通称、芸高という)が国立学校として設置されたのである。こうして、都立駒場高校音楽科と国立東京芸大附属高校は東京都における二大音楽教育機関としての機能を果たすことになるのである。後日、私はその両方の学校で教鞭を執ることになり、深く関わるようになったのである。