20世紀後半以降、いや21世紀のいわゆる現代音楽といわれるものが、なぜ人々に根づいていきにくいいのか・・という問題について考えてみたことがありますか?


各種の響きが過度に複雑になり、作曲家個人の表現技巧趣味に偏向し、表現の濃淡が不鮮明にして感じとりにくい傾向になり、その結果、人々の心に残る時間が不確実であることも一因でしょう。でもそれだけではないように思います。

現代は、情報化社会が邪魔をして、凝縮されたエッセンスが十分で、かつ栄養が内包された手作りの美味しい「おとうふ」のような音楽が書きにくい時代なのでしょう。お豆腐ならず高級なステーキのような音楽にもあまりお目にかからないのですね。駄菓子のような軽薄な音楽は、駄菓子屋が儲かるからで、あまり音楽文化形成上に有効とはどうしても思えません。

上質のお豆腐の味を引き立てるのはキレのよい日本酒でありましょうが、いわゆる雑念のない「純白」の音楽を私は認めます。薬味の劇的効果をのせて、少量のお醤油で味を引き立てる・・そしてお酒の端麗さを味わう。その瞬間、いい音楽を受け入れた気持ちに至るので、作曲も創造も音楽表現自体もかくあるべきであると私は信じているのです。

私は「お豆腐にカクテル」なんて言った若者がいたらスタイル違反と断じて「お前は酒の味も料理の味も分からないヤツだ」とお膳ひっくり返して帰ってしまいますけれどね
()。音楽にもお酒にもそれなりのお行儀作法が必要なのです。

かつて、ブラームスは、「私たちはもうモーツァルトのような美しい音楽を書くことは不可能なのだ」と言いました。このあたりから、音楽の新しくも困難なる道が始まってくるのでしょうね。私は立場上、若い作曲家達の作品をしばしば聴かされることがあるのだが、これは歴史に残るであろうという印象の曲は極めて少ないです。日本楽壇の重鎮である先達が「音楽はラヴェルで終わりです。俳句は虚子で終わりです」と述べていましたが、そのような皮肉めいた言葉で締めくくれるほど現代音楽は病んでいるように思います。

数多くの試みをなし、それらを聴衆である人々が印象として判断するとき、「これよくわからない。これ何を言いたいの、ああ、曲、終わったのか・・」という次元の作品があまりに多すぎるように個人的には思うのであります。特に若い世代の音楽に危険な兆しを感じます。「情味」という言葉がありますが、現代こそ必要なのは表現に於ける「情味」であります。「調」が存在するしないのといった些細な問題ではありません。

音楽を受け入れるのは紛れもない「生きた人間」なのです。一定の約束事に帰結することのない各種の響きというものは、帰るところがないいわゆる浮浪の響きであり、そのままなら聴衆までもが不安になる・・。道標は特定の個人しか分からなければ当然無意識に見逃すでしょう。音楽は創作物であるのだから人間に理解させるためには当然ある種の普遍的な約束事に支えられているべきであります。たとえそれが、一見複雑にして直ちによく理解できないものであろうとも・・。

それはいわゆる「音楽を提示するお行儀」というものですね・・・。現代音楽というものは「お行儀が悪い作品」が多すぎるのであり、それが人々には奇異に映るのでありましょう。
しかしお行儀の良い立派な音楽作品も存在することは間違いありません。そういう音楽のみが残っていくともいえるでしょうね。