幸せは時々感じるもの。考えるものではない。

常に幸福を感じている人などいない。


「あなたは幸せですか?」という問いは実は漠然としている。

「あなたは何をしたときに幸せですか?」なら大抵の人は答えられる。

「あなたは幸せですか?」という問いは「あなたは(常日頃)幸せを感じていますか?」

という強制力を持っている。

この否定は「あなたは不幸ですか?」であるが、「あなたは(常日頃)不幸ですか?」

という強制力がある。


「私は時々幸せで時々不幸を感じ、ほとんどは何も感じません。」

が多くの人にあてはまるのに、意図的に問いの具体性をなくす(抽象性を増やす)

行為は、わざと回答者に答えられないようにしているようだ。

つまり出題者にとって回答者が幸せかどうかなんてどうでもよくて、

出題者が何か用意した主張を通そうとするためのきっかけづくりなのである。


※たまに「幸せ」とは「付き合っている人がいる」などの恋愛状況を指し示す場合がある。

コミュニティによる。

「生きる意味」を「生きる価値」とか「生き甲斐」とつい読んでしまう人がいることでしょう。


「生きる意味なんてないよ。」を「生きる価値なんてないよ。」「生き甲斐なんてないよ。」

と読んでしまう人がいるでしょう。

何か違和感を感じませんか?


「生きるという現象に意味を見出すことができるのか?」という問いと

「Aさんが生きる価値がない」、「自分の生きがい」という価値論がどうもごっちゃになりやすい。


あえて、主語をつけないのも、「ごっちゃになりやすい」を増長しているのではないでしょうか?


それで、生きるという現象に意味を見出そうとすると、人に特定せず、あらゆる生物について考える必要があるでしょう。

注意するべきは、「意味」というのは、「別の解釈」と読むべきなのです。

意味を問うとは「その言葉だけじゃよく理解できないから、別の言葉で理解しやすいようにする」ということなのです。


生きるは現象をあらわす言葉です。生命活動をもっとよく理解するには、

少なくともアミノ酸由来の生物ではない生物を見つけて共通点を探す必要があるでしょう。

最近そのような生物が地球上で見つかったそうですね。

もちろん、それだけでは一視点にしか過ぎません。あらゆる生命活動を観察して初めてわかることでしょうから

全てを理解するのは難しいでしょう。マクロな世界では地球ですら生命活動していたりするのかもしれませんし。

ミクロな世界でも生命活動に近いものが存在していたら面白いです。

こうして考えると生は随分と謎なのですが、何か共通していえそうなことは自律的活動なんじゃないかと思うわけです。そう考えると物理法則にその鍵があるんではないかと。

じゃあ神がいるとしたらそれは物理法則そのものですね。


生きる価値について考えてみましょうか。

まず価値というのは身近なもので例えると価格です。なんでも金に換算するなと怒られちゃいそうですが。

それで缶コーヒー1本120円とか100円とか価格ってかっちりきまってはいなくて、

「定価はあってないようなもの」といわれるようにほんと好き勝手に販売者がつけるんですよね。

でも売れなきゃ仕方ないので売り上げ最大になるように安くしたり高くしたりするのです。

人(人数は一人に限らないかも)が価値を決めるので、全員が一致することは非常に稀なんですね。

でも「あなたは生きる価値がありますか?」と問われたら「誰があなたを値踏みするのか」という情報がありません。こういうときは「誰でも納得のいくあなたの生きる価値はありますか?」とか

「あなたはあなたが生きる価値を持っていますか?」という風にいくらでも値踏み者の指定ができるのです。


1.「誰でも納得のいくようなあなたの生きる価値」

そんなもんあってないようなもんです。いくらでも変わりますし、別にあなたは商品じゃないんだから

売れなくても良いのです。売れたいんだったら搾取されないように気をつけましょう。

2.「あなたはあなたが生きる価値を持っていますか?」

単純に自分を評価してください。過剰評価で良いです。評価なんてそんなもんです。


名誉欲。

他者から評価されると、何かと得をする結果が待っている経験があるからかもしれません。

自分の意見が尊重されたり、物質的な報酬に繋がったりしますからね。

でも他者の評価も自分が自分自身を評価したときの評価も結構無根拠ですよ。

純粋に評価できるのは数値化されている場合だけです。

査読付き論文を何本書いたとか、貯金がいくらあるとかそういうもんだったら

序列をつけられます。

だから気にしないのが一番楽でしょう。他人の評価なんてあてにしないで

自分の好きなことを追求した方がよっぽどその手のマニア連中に評価されちゃいます。


お気楽主義でいることは決して間違いではありませんし、

変な宗教団体にひっかかって、労働力やお金などを搾取されたり、

他の人達からの信用を失うことに比べたらマシな生活を送れるでしょう。


不幸が訪れたら、そのときだけ悲しんでも良いです。でもそれに足をひっぱられないように生きましょう。

過去に起きたことを覆すのはできません。全ての状態は永遠には続きません。

それを受け入れて、生きるようにしましょう。

結局、先が見えない世界では手探りしながら前に進むしかないんですよ。





妻は創価学会の会員です。彼女は3世です。

生まれた時から学会員なので、もうそれは生活の一部ということです。


妻が学生のころ、彼女は僕の後輩でした。

同じサークルで同じ楽器でした。

彼女が大学一年生の秋にお付き合いして下さいとお願いしました。

お返事は一ヶ月後にもらいました。

そのときに「私、創価学会員だよ?」とも打ち明けられました。

僕「僕が入信とかしないと結婚とかできないの?」と尋ねました。

そういうわけではないことを聞いてほっとしました。


それから付き合いだすのですが、実は彼女の家族や彼女自身からいつ入会をすすめられるのか

正直びくびくしながらお付き合いしていました。

あ、いや、彼女はとても大好きだったので楽しかったし、

ことあるごとに話のネタが創価学会だったり。

何度か創価学会にのりこんだこともあります。集会やら行事に参加して。

自分はデートのつもりでしたね。


そんで、色々と仏教そのものに興味を持っていったのですが、

創価学会には入るつもりがありませんでした。

というのは、別のカルトに高校生のときに100円とられているからです。

「ありがたいお話を聞かせてあげるから、お布施を5000円支払いなさい」というんです。

そういうイメージがあってどうしても宗教団体には興味がわきませんでしたし、

そもそも僕の中には、お釈迦さんの言ったことって結局人の悩みや苦悩に大して

ポジティブな生き方をするための方法なんだとわかってきていました。


それで、付き合いだして6年たつころに、初めて勧誘らしきことを

彼女の同期の女の子から受けました。

それで、色々と話をしたんです。俺様教のこと、自分は創価に入らないこと、でも創価の活動は

暖かく見守るよってこと。

まあその女性には「実践が伴わないのはずるい」と言われました。

ずるかろうがなんだろうが、私には私がしたいこと(数学)があって、そっちに力を入れるから

創価の活動じゃなくてもいいでしょ?世の中にはいろんな人がいて成り立っているんですよ。

と反論して話は終わりました。


俺様教は創価学会に入らないための理由付けでもあるんですよね。


でも、付き合いだして丁度7年目の日に彼女と入籍して、

(結婚式上げてないんだけど)仲人さんは創価学会の地区の代表の方にしてもらいました。

会いに行ってお話しただけなんですが、

彼女のお父さんが他界されていたので、お父さん代わりとでも言いましょうか。。。


俺様教はいまでも続けています。決して創価学会や他の宗教団体には入らないと思います。

妻は妻で創価学会で居続けるでしょう。僕の俺様教にも理解してくれています。


だから創価学会員をじゅっぱひとからげに忌み嫌うようなこともありません。

何も中のことがわかっていない人は有る程度触れてから批判したり賛同してもいいんじゃない?


でも、カルト教団はまじで触れ合いたくないので、勘弁!という気持ちはわかるよ。

僕も親鸞会とか超怖いもん。


このブログは某K山さん@親鸞会講師らしいのブログをmixiのマイミクさんに紹介されて見に行って作ったもんです。