セラピストMASAの「心の旅日記」

セラピストMASAの「心の旅日記」

あるヒプノ系セラピストのワンネス体験その他のエッセイ

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 すべてのからくりがわかってしまえば、後に残るは選択のみ。

 

 何を選ぶのか?

 

 本質的には、ただそれだけ。

 

 選ぶとはどういうことか?

 

 ただそのものになっているのかということ。

 

 思念レベル・想念レベル・思考レベル・思っただけの何かでは無く。

 

 あるいは自分をごまかしたゆえの偽の願望でも無く。

 

 誰かに刷り込まれた本当は自分のものでは無い願望でも無く。

 

 恐怖や自己保身に基づいた仮面の願望でも無く。

 

 自己顕示欲や独裁欲をただ満たし、エゴに一時の満足を与えて安心するための願望でも無く。

 

 ただただ純粋に、ただただあり、ただただ自然な自分自身の願いなのか。

 

 本当の自分自身の願いを選択する時。

 

 それは最もその人を幸せにし、最も喜びにあふれ、最も自然で、最も他人をも幸せにする願いの選択となる。

 

 その選択が現実化した時。

 

 その人は知る。

 

 自分は真実の選択をしたことを。

 

 自分に最もふさわしい選択をしたことを。

 

 「生きる」という意味そのものを選び取ったことを・・・知る。

 

 

 必要なものは平安。

 

 眼前に広がる光景が。

 

 例え焼け野原でも。

 

 例えがれきの山でも。

 

 その場ですくっと立ち。

 

 心の中心に平安をたずさえ。

 

 透徹したまなざしですべてを見すえ。

 

 勇気と言う名の歩を進め。 

 

 安らぎと言う名の自分を生きる。

 

 分かたれることの無い我。

 

 すべてが私。

 

 すべてが愛。

 

 道は目の前にあり。

 

 たどった道には触れ合いが残る。

 

 慈しみと言う名の人生を送り。

 

 やさしさという答えを得る。

 

 今ここに。

 

 私はある。

 

 
 

 今いるこちら。

 

 望んだあちら。

 

 こちらとあちらが意識の中で同一となる時。

 

 こちらはあちらとなる。

 

 こちらとあちらが心の中で一緒となる時。

 

 こちらはあちらとなる。

 

 こちらとあちらが一つとなった時。


 望んだ場所にその人はいる。

 

 願いがかなった場所にその人はいる。

 

 こちらとあちらはもはや分かたれること無く。

 

 同じ一つの場所となり。

 

 今こことなる。

 

 

 

 今ここにある自分の姿。

 

 今ここにある自分の状況。


 他人にやられたこともあるし、理不尽で不条理なこともあるけれども。

 

 それらすらすべてをひっくるめて、今ここにある。

 

 すべて自分というレンズを通して投影され焦点を結んだ上での「像」なのだ。

 

 「現実」という名の「虚像」。

 

 「虚像」と言ってもそれを体験している者に取ってはリアルな「現実」。

 

 「大地」に手を当て、すべてを感じてみる。

 

 世界すべてが自分自身であることを感じる。

 

 さて、どうしよう。

 

 様々な事象そのものに手を加え、物事を変えていくのも一つの手だ。

 

 レンズの方の焦点を変えてみて、結ぶ「像」を変えてみるのもの一つの手だ。

 

 極端な話だが、深く傷を負ったとして、その傷を一瞬で奇跡的に治すことも、 逆にその傷跡と痛みを背負いながら生きることも宇宙的には等価値なのだ。

 

 その体験から何を得、どうするのか。

 

 その人の「自由」でそれだけなのだ。

 

 それだけの完全な受容性を持ってこの多次元宇宙は存在しているのだ。

 

 さて、どうしよう?

 

 「虚像」と言う名の「実像」をどう体験しよう。

 

 投影された「現実」と呼ばれているものをどう体験しよう。

 

 すべては「自由」。

 

 「自由」なのだから・・・。

 

 

 その人の波動(周波数)が世界を決める。

 

 その人の時空間構造体が世界を決める。

 

 その人を構成している分離された神の視点の集合体の重心が世界を決める。

 

 その人の意識の焦点の最も合っている所が世界を決める。

 

 その人の本当の心が世界を決める。

 

 

 

 

 宇宙の仕組みについて・No1の続きです。

 

 それでは前回に引き続き、宇宙の仕組みについて述べていきます。

 

 前回は主に「ワンネス」について述べました。

 

 今回は、いかに「絶対」の「ワンネス」から、私達の経験している「相対」の「多次元宇宙にまたがる宇宙のすべて」が展開していくのかを説明していきたいと思います。

 

 それではこの絶対不変の「ワンネス」から、どのようにして私達から経験している多次元宇宙が生まれたのでしょうか?

 

 何のために?

 

 どういうプロセスで?


 何の目的で?

 

 そして、この経験をしている主体である私達に何の意味があるのか?

 

 実はですね、その答えを人間の思考プロセスで答えることは、正確にはできないのです。

 

 人の持っている概念の枠内で説明なんかできないものなのです。

 

 多くの人がここで引っかかったり、あるいは間違ってしまっているように見えます。

 

 でも、不可知論をここで論じているわけでも無いのです。

 

 どうせ理解できないし、知覚もできないから、論じるだけ不要・無用だと言っているわけでは無いのです(そう言って切り捨てている人もいます「しょせん、わからないことを考えるより日常に目を向けましょう」とか)

 

 私は「理解」をしていますし、「実感」もしていますし、「わかっています」が、人の言葉や概念で説明することはとても困難です。

 

 でも、それでは不親切というものですので、やれる範囲でできるだけやってみます。

 

 太古の昔より、このことに気が付いた人々、それもおぼろげに気が付いた人から、完全把握した人まで、多種多様な人が多くのことを伝え残してきました。

 

 例えば古代インドの古典ではこんな風にいいます「無限であるがゆえに有限を望み、永遠であるがゆえに)(限られた)刹那の時を望んだ」。

 

 そう言えなくも無いでしょう。

 

 古代インド思想でも、イスラム神秘主義のアラビアでも、同じようなことが書き残されています。

 

 「じゃあ、なんでこの完全で完璧で神であるものがわざわざこんな分離された世界を作ったのか?」そして「また完全で完璧で神であるものにまた戻らなければならないような奇妙なことをしてるのだ?」。

 

 言いえて妙かもしれません。

 

 「完全で完璧なものが、そうではないことを経験してみたかった」と言う人もいます。

 

 それも一理あるかもしれません。

 

 でも私が実感として答えるなら(人の言葉や思考形態や概念で説明できないという前提で聞いてくださいね)こんな感じになります。

 

 「答えはワンネスじゃなく、私達にあります」。

 

 「ワンネスからの分離のドラマを、どれだけ最初にワンネスがあってそれからこんな風になったと説明しても無駄です。そういうものじゃないですから。ワンネス自体はまったく不変の実態で動きませんし、変化しませんから。そもそも時間も空間も無いのですから」。

 

 あの、最初にあったのはワンネスじゃなくて、私達にとっては、私達の方なのです。

 

 最初というものも実は無いのですが。

 

 わかっていただけますか?

 

 絶対不変の「ワンネス」から、どのようにして私達から経験している多次元宇宙が生まれたのでしょうか?

 

 何のために?

 

 どういうプロセスで?


 何の目的で?

 

 その答えは「私達自身」の方にあります。

 

 そしてその「答え」を付与するのも最終的に私達自身なのです。

 

 あなたにとってはあなたが。

 

 真に実感するものが「答え」です。

 

 わかりにくいでしょう。ですから宇宙の仕組みの方から述べてみましょう。

 

 宇宙にある真の実態が「ワンネス」しかないのなら、私達が経験している世界って何でしょう?

 

 宇宙にある真の実態が「ワンネス」しかないのなら、地球と言う3次元の惑星でこんな人類の一員たる人間としての体験なんてしようもないでしょう。

 

 これを成り立たせている宇宙の仕組みの真髄は実は「錯覚」なのです。

 

 色々な言葉で表現はできると思います「錯覚」、「投影」、「絶対に対する相対」、「反射意識」、その他諸々。

 

 これから先に述べることは前にも例えとして似たようなことを書いたことがあると思います。

 

 いわゆるアナロジー、例え、比喩、類似のもので述べるものではあるのですが、ただすべての記述の中で一番正確でないものであることだけは覚えていて下さい。

 

 人の思考法や概念では理解できないことを、何とか理解の一助となるように無理やり疑似イメージ化して述べているのです。

 

 さて、完全で完璧でそれしかないものを材料に、無限にして永遠の多種多様なものを経験しようとしたら、どういうからくりを用意しますか?

 

 決してできないことをしようとしたら。

 

 例えですが、こんなことをしたのです。

 

 「それ」しかないものを、それ以外のものもあるように知覚するようにするのに、錯覚を利用する。

 

 説明してみましょう。

 


 <注> わかってはいるし、実感しているし、体験しているし、体現もしていることを書いているのですが、表現することが大変に難しいことを記述しており、ここまで書いてさてどう記述していこうかと一度止まりました。そして結局、何日も書けませんでした。ですので取り合えず、ここまでをアップしておきます。続きをこのまま書き足して再掲するかもしれませんし、「宇宙の仕組みについて・No3」として続けるかもしれません。また、今まで「宇宙の仕組みについて」シリーズを連続で記述、投稿して(Noいくつまでいくのかわかりませんでしたが)一気に書きあげてしまおうと思っていましたが、途中で何回か別の記述を挟むことになりそうです。今、来ているエネルギー、波動、流れにそっていますので、そういうこともあります。ある意味でですが自分だけで書いているわけでは無く、自我だけでどうにもなりません。一応念のために申しておきますが、もったいぶっているわけでも、知ったかぶっているわけでもありません。感性で生きています。流れに乗って生きています。降りてくるものを何とか翻訳しながら記述しています。どうかご理解下さるようにお願いいたします。  

 

 

 それでは、これからシリーズで宇宙の仕組みについて述べていきたいと思います。


  ここで言う宇宙とは、いわゆる銀河系とかの3次元の物質的な宇宙だけを指すのでは無く、多次元にまでわたる宇宙構造とその仕組みのすべてを指しています。

 

 まず、宇宙の根源・根本について述べてみましょう。


 ここではこの宇宙の根源・根本であるものを「ワンネス」と呼んでおきます。

 

 「一つなるもの」とでも言った意味になりますが、何かしら名称が無いと不便ですので便宜上、そう呼んでおきます。

 

 ここで「ワンネス」と表現している宇宙の根源・根本は様々な名で呼ばれています。

 

 根源、根本、第一原理、それ、神、等々。

 

 この「ワンネス」のことを説明し語ることは、一般的に言って非常に難しいのです。

 

 と、言うのも人の思考や理解には、なかなか収まってくれない代物だからです。

 

 理由はあります。

 

 難しいと言っていますが、実際には難しいのでは無く、私達がそれを理解し実感しないようにして、世界が成り立っているからなのです。

 

 難しいどころか逆のもの。

 

 複雑怪奇どころか、これ以上無い単純なもの(でも単純という言葉すら本当は当てはまらないもの)。

 

 だって宇宙には本当は「それ」しか無いのですから。

 

 宇宙の実態は「それ」しか無いのです。

 

 この理解し難いものを、それでも何とか説明してみましょう。

 

 まずは完全なものを思い浮かべてみて下さい。

 

 完璧なものを思い浮かべてみて下さい。

 

 「ワンネス」とはそういったものでもあるのですが、でも完全とか完璧とか言うと普通、欠けの無いものを想像しませんか?

 

 欠けが無いと言えば、確かに欠けが無いのですが、欠けるということは、欠けるに足る実態がまずあるわけです。

 

 その実態すら無いのです。

 

 「ワンネスとは無のようなものか?」と何人かの別々の人に聞かれました。

 

 「そういう風に思うんだ」という感想と、複数の人に判で押したようにこの同じ質問をされましたので「皆、同じような疑問を抱くんだ」という感想を持ち、とても興味深く感じましたが、答えは「違います」というものです。

 

 「無」の逆です。

 

 「ある」という感覚が強いて表現するなら近いものです。

 

 それも圧倒的な「ある」という感覚。

 

 でも「圧倒的」と言うと「量」があることになるわけです。

 

 その「量」もありません。

 

 「質」も無いです。

 

 「時間」もありません。

 

 「空間」もありません。

 

 「次元」もありません。

 

 「感情」もありません。

 

 「思考」もありません。

 

 「意志」もありません。

 

 「意識」もありません。

 

 「動き」もありません。

 

 まったく分かたれていないのです。

 

 分離が一切ありません。

 

 でも分かれるとか分離とかいうと、その分かれたり分離したりする元があるように思いますが、その分かれる元自体が無いのです。

 

 で、「じゃあ、無のようなものか?」という質問が出てくるのでしょうが、「違います」。

 

 むしろ「逆」です。

 

 ちなみに本当の「無」というものは宇宙に存在しません。

 

 本当の「無」ということがあるのなら、それは究極の錯覚状態のことを指します。

 

 また、「分離の果て」というものも本当はありません。

 

 「分離」というものも本当は宇宙に存在しないのです。

 

 本当に宇宙にある実態は「それ」のみ、「ワンネス」のみなのです。

 

 「ワンネス」とは「絶対」です。

 

 でも普通、何となく「絶対」というと「強固な信念」とか、「それだけで強化したもの」とか、「それだけで純化したもの」とか、「特化したもの」とか、その他そんな風な感じで受け止めませんか?

 

 そういうものでは無いのです。

 

 ここで言う「ワンネス」の「絶対」とは、「質」も「量」も「その他のもの」もありません。

 

 「絶対」とは結構、言い得て妙の言葉で、文字通り「対になるものが絶っした(絶無)」の状態なのです。

 

 反対語が「相対」です。

 

 これも言い得て妙の言葉で、私達が経験する宇宙はすべてこの「相対」で成り立っています。

 

 「ワンネス」。

 

 もしかしたら、「高次元超精神生命融合体」のようなものを想像してもらえると、ちょっとだけ「ワンネス」のイメージの理解に近いかも知れませんが、本当に「高次元超精神生命融合体」というものがいたら、それは相対の多次元宇宙の中の一存在に過ぎませんので、根源たる「ワンネス」そのもののことではありえません。

 

 「ワンネス」は、精神でもなければ、融合体でもなく、高次元の存在ですらありません。

 

 次元という幻影を作り出している本体でもあるからです。

 

 「ワンネス」。

 

 存在そのものであり、生命そのものであり、絶対そのものであり、神そのものであるもの。

 

 宇宙の唯一の実態。

 

 すべてのものの本当の正体。

 

 そして私達の究極の正体でもあります。

 

 ちなみに「神」と言っても「ワンネス」は、これをしろとか、あれをするなとか、これが神の意志だとか、神の計画だとか、一切言いません。

 

 「意識」とか、「意志」とか、持っていないです。

 

 よく「神」がこう言ったとか、「神」の意思だとか、「神」の法則だとか言いますが、本当の宇宙の唯一の実在である「神」=「ワンネス」には一切そんなものは無いです。

 

 「ただある」それだけです。

 

 「存在」そのもの。

 

 そういうものです。

 

 ある意味でですが(便宜上の説明ですが)究極の喜びとは、「ワンネス」のことです。

 

 神への回帰、あるいは神人合一とは、「ワンネス」のことです。

 

 ニルバーナ(涅槃・悟り)もまた、本来は「ワンネス」のことです。

 

 他にも「仙道」の方の還虚合道とかも本来「ワンネス」のことです。

 

 ある人が、人とかすべてのものの究極の目的は「ワンネス」になることだというようなことを言っていたのですが、「違います」。

 

 正直、「よくわかってない人だな」と思います。

 

 あの、「ワンネス」ってなるものじゃあないんです。

 

 なるもくそも、最初から「ワンネス」以外のものって無いんです。

 

 人の目的もワンネスになることではありません。

 

 ある個人、一人のある人が自分で決めた人生の目的が、自分の正体がワンネスであることを完全に思い出すということはあり得ます(これも便宜的表現ですが)。

 

 でも人の目的、人類の目的、すべての存在の目的がワンネスになることなんてことは無いです。

 

 なぜなら、逆に私達はワンネスである実態から、わざわざ芸術的なまでに錯覚に錯覚を重ねて今ここで人間としての個人の意識を持って、わざわざ人生を送っているからです。

 

 じゃあ、人生の目的って何でしょう?

 

 その人が決めた目的以上のものなんてありません。

 

 その人が人生の目的を変えれば、文字通り人生の目的は変わります。

 

 また、別の表現をさせてもらえれば、人であることがあなたの目的です。

 

 あなたがあなたであることが、人生の目的です。

 

 あなたの人生を生きることが、あなたの目的です。

 

 そういう言い方もできます。

 

 例えばあなたが個人として、自分の究極の正体がワンネスであることを思い出し完全に実感するとします。

 

 そうするとどうなるかと言うと、あなたは消えます。

 

 投影をやめてしまいます。

 

 相対をやめて、絶対に戻ってしまいます。

 

 錯覚をやめます。

 

 「ワンネス」であることを完全に思い出し実感するとは、「ワンネス」そのもののこと。

 

 あなたという幻は消え、ワンネスだけがそこにあることになります。

 

 言っちゃあ、何ですが、私達はわざわざ錯覚を起こし、幻である人間の「私」を生きています。

 

 すべての「人」がです。

 

 「人」どころか、すべてのもの、すべての存在がそうなのです。

 

 人生の目的とは何か?

 

 あなた自身が目的です。

 

 そしてあなたが決め選択したことが目的です。

 

 それは「奇跡」と言えば「奇跡」なのですよ。

 

 私が多次元宇宙の探求を経て、何が一番驚嘆したって、この「制限」を作り出すほうが大変なんだという事実です。

 

 例えばですが、この制限だらけのいやになる物質世界をわざわざ作り出すために、どれだけの芸術的な技術の極みとでもいうべきものを駆使して、錯覚に錯覚に錯覚を重ね、投影に投影に投影を重ね、幻影に幻影に幻影を重ねて、わざわざ作り出されているか。

 

 まさに究極の芸術、技術の粋と極み、そんなものでわざわざできているのです制限って。

 

 人間であるって、ある意味、すごいことなんですよ。

 

 あなたがあなたであるって、ある意味、すごいことなんですよ。

 

 あなたが「神」なんです。本当に。

 

 ああ、でも私なりの助言です。

 

 あなた以外の人も「神」なのです。

 

 あなた以外のすべても「神」なのです。

 

 だから軽々しく犯しに行かないで下さいね。

 

 他人を自分に貢ぐための道具にしたり、他人を自分を崇拝させて自分の優越感を感じるための道具にしたり、他人を貶めて自分の価値を感じるための道具にしたり、他人にやらせても自分がやったと盗んだり、その他もろもろ、まったくおすすめしません。

 

 そんな必要が無い人生をおすすめします。

 

 それでも上記のことをどうしてもやるというなら、別に止められませんし、ある意味で止めません。

 

 でも、責任も自分で背負うことになります。

 

 逆もそうです。

 

 自分で自分を犯すような、自分で自分を傷つけるようなことも止めることをおすすめします。

 

 自分自身を不当に傷つけたり、また、不当に搾取される所に自分を置いたり、自分への虐待を許したり。

 

 そういったものも、まったくおすすめしません。

 

 ガラにも無く何か偉そうなことを言っちゃいましたが・・・。

 

 あなたの人生をあなたが彩ってみて下さい。

 

 それは「可能」です。

 

 また、他の人と共同創造で何かをやってみたいなら、それもありです(ただ、相手や仲間は、自分と共同創造するに本当にふさわしい人を選んだ方がよいとは思いますが・・・例えばあくまで一例ですが、搾取もせず、搾取もさせぬ相手を)。

 

 「自由」。

 

 あなたは本来「自由」なのです。

 

 制限だらけの嫌になっちゃうこともあるだろうこの世界で、本当はあなたは「自由」です。

 

 その「自由」の本源は、「あなたは神だ」という紛れもない事実なのです。

 

 あなたが本当に持っているもの、それは幻で制限を作り出し、その自分縛りの中でいかに自分の創造性や独自性を発揮し、自分自身の生きがいを生きるかという、制限というものを自分に課す自由すら自分に駆使した「自分で作ったゲーム」の「主人公」だという事実なのです。

 

 

 

 次回は、この唯一の実態である「ワンネス」から、言わば「絶対」からどのようにして「相対」の世界が作られ、多次元世界が作られ、私達の生きる物質世界が作られていったのか、そういった話をしたいと思います。

 

 

 <宇宙の仕組みについて・No2に続く>

 


 

 長い間ご無沙汰しておりました。

 

 その後、色々変化がありました。

 

 まず、老いた父が亡くなりました。

 

 最近、飼っていた猫もあの世に旅立ってしまいました。

 

 老いた母も色々病気になり、半分、私が介護みたいな生活になっております。

 

 あと、これはもしかしたら書かない方がよいことかもしれませんが、起きた事実は事実ですし、被害もあまりにも大きいのでさわりだけ書いておきますが、親友と言ってもよかった人間に「それはないだろう」というレベルでえげつなく裏切られました。

 

 受けた被害があまりに大きすぎるのですが、それでも学びがあり、深みがありました。

 

 数年前に書いたの前回のブログ、まるで最終回のように最後の羽化の前のプロセスの最中のように書きましたし、実際にそのような状況でしたが、 その羽化の例えで言うと、さなぎから出て、羽を伸ばして乾かしている最中に予想外の土砂降りの雨にあって死にかけ、やっと雨があがって低体温でびしょ濡れの身体と羽を自然乾燥で乾かし始めて、ある程度までいったけど、羽が乾ききってもいないし伸び切れてもいない、でもあともう少しいくつかのプロセスを経て、いくつかのピースが埋まったら完成するみたいな感じとなりました。

 

 そしてその私にとって予想外の大雨の正体とは、端的に言えば、見過ごしてきた「課題」でした。

 

 必要なピースをそろえるのに足りないもの。

 

 それもこんなにも痛みや喪失、裏切りや搾取、その他という形で来るということは、見ないよう自覚しないようにしてきたことへの「最終的な突き付け」とでもいうべき出来事であったということです。

 

 

 

 一方で、「宇宙の仕組みが完全解析できた」と言ってもよいくらいに理解をし終えました。

 

 「神の方程式」を解いたと言ってもよいくらいです。

 

 大げさなとか、独りよがりの空想に浸っているだけだろうとか、思われる方もいると思います。

 

 ですが本当と言えば本当です。ある意味で証明のしようもありませんが。

 

 じゃあ、それを語れと思われる方々もいるでしょう。

 

 そのつもりなのですが、ちょっと難しい側面もあって、なぜかというと端的な話をすると、「人ひとりひとり違う宇宙を体験している」ということもまた真実だからです。

 

 宇宙の仕組みは、真髄や中核であることほど、他の人と同じ可能性は高いのですが、末端というか、細かいところになればなるほど、その人が体験している宇宙の仕組みは違うと言えば違うものになっていきます。

 

 いくつか大雑把に言ってみましょう。

 

  まずは一例です。

 

 「残酷な神が支配する世界に自分は住んでいる」と本当に意識の深い所で信じている人は、文字通り「残酷な神が支配する世界」を実感として体験する出来事が続く宇宙を体験しやすいのです。

 

 ただ、それだけで終わるわけではない所が興味深い所で、例えば一方で、「それは世界観を根底から変えれば体験する世界も変わってくるよ」と教えてくれる出来事がそれとなくさりげなくその人の前で起こっていたり、なんらかの形でその情報が届けられたり、それを示唆する体験を本人がしたりというようなことも多々あるのです。

 

 あるいは 「残酷な神が支配する世界に自分は住んでいる」と意識の深い所で信じている人が、「宇宙は愛で満ち溢れている」と意識の深い所で信じている人に出会うことすらあり得ます。

 

 そんな時に起きる出来事も様々です。

 

 悲劇に終わることもありますし、幸せな結末をむかえることもあります。

 

 ただすれ違っただけでおわることもあります。

 

 その他、色々あり得ます。

 

 これもほんの一例に過ぎません。

 

 意識と言っても普通は何重にも重なっていますから、例えで言うと単色の現実創造であることはまれで、多くの人が多色のグラデーションのような現実を創造しています。

 

 こういったことも話していきたいと思っています。

 

 個人的には、あとどれくらいかかるのかわかりませんが、比喩ですが羽化をし終わり、羽を伸ばし、乾かし切って大空へ旅立っていける予定でいます。

 

 また、今更ですが「自分はセラピストなのだな」という深い自覚を得ました。

 

 このブログに何回か登場し書き記しているチャネラーのリチャード・ラビンさんのチャネリングするチャネリング存在であるエクトンからは、私は職業としては「サイキックカウンセラー」だと呼ばれていましたが(細胞レベルでまでそれを選択している人というような表現をされましたが)本当に今更ですが、それを「深く自覚」しました。

 

 そしてこのブログを読まれるような多くの人々に対しては、「すべて」を書き記して残していきたいと思っています。

 

 ある意味でこれは「遺言」のようなものです。

 

 「遺言」と言っても私が死ぬわけではないのですが、私が探し求めて得た「すべて」を、皆様が人生をよりよく、本当に自分らしく、魂の本源と言ってもよいものを発揮し、心のままに生きていくための「よすが」にしてもらう一助になればと思って、これから書き残していこうと思っています。

 

 参考にするもしないもその他のことも読まれた方の本当に自由です(ただ盗作や盗用はおやめ下さいね)。

 

 これは一人の人間の「心の旅日記」に過ぎませんので。

 

 ブログ上では長いお休みをいただきました。

 

 今から「新たな始まり」です。

 

 よろしくお願いいたします。

 

 
 

 多分、最後の段階に入っている。

 羽化の例えで言うなら、羽を伸ばして二、三回震わせてみたような状態。

 もうすぐ羽ばたいて飛び立ってしまう。

 後に置いていく情景もあるのだろう。

 でも、常にその背景にあるのは、静寂と平安なのだ。

 普通で、自然で、ただ自らあること。

 探して、探して、探して、探求の果て、見つけてみれば。

 始めから持っていたようなもの。

 と言うより、それそのものだったということに気付く。

 それに気が付かないようにさせて、世界は分離の幻影を保ち続けているのだ。

 もういいのだ。

 すべてが。

 もうまもなくの。

 飛翔・・・。









 今朝方のこと。

 同じく寝床の中で。

 ここ数日特に、まるで惑わしかお試しか?というくらい色々な心の領域が表に出ては消え。

 それぞれに一理あるようで。

 路線や意味合いが決まりきらないことに少し困惑気味の印象もあったけど。

 「今、わかった」感覚を得ていた。

 自分の人生全般で言えば、整えても最後の最後で最後のピースが埋め切らない・外される・達しない等々のもどかしさが少々あったけど。

 さあ、もう人の持つ概念や思考や言葉では表現できないし、矛盾すら生じかねないけど。

 何とか記してみよう。

 今まででも、あと一歩まで迫ったことは何度もあった。

 わかった感覚を得ても、忘れてしまうというか、その次元にいなくなってしまう感じで日常を送る。

 その日常も普通基準で見れば、いくつも奇跡は起きているし、通常ありえないような深みも各種経験している。

 振動数を高めれば、やがてこの3次元物質世界の地球から消えてしまうのではないかくらいまではいくのだ。

 人間ドラマでも色々あった。

 様々な輝きを見せてもらってきた。

 私がお役に立てる面は役に立ってきた対象の人々もいたと思う。

 それでも最後の扉をくぐりきれないもどかしさ。

 不完全さをどこかで感じてきた。

 ある友人が言っていた。

 例えば私に届けられる見えざる領域の「声」。

 『同じことを手を変え品を変えて言っているだけで、いつ気が付いてくれるのだろう。理解してくれるのだろうとしているだけに感じる』等々。

 それはその通りだったろう。

 もっとも、いい加減な見えざる領域の「声」に翻弄されたりして「人生の道筋」を誤った人々もそれなりに見てきたから、用心深く扱っている面もあったが。

 結局、どの「声」に耳を傾けるかも自分の心の投影次第なので(普通、自分の心の持ちようにふさわしい領域につながるし)。

 そして今朝方。

 「ここだ」という意識の意味合いの場所にいた。

 そこでは今までも感じたようにすべてが完璧だった。

 いつもここで日常の意識に帰って来れば、また分離の幻想のある意味では二元性に基づいたドラマが良くも悪くも始まると感じてしまう。

 私個人の例で言うのなら、例えばセラピーハウス・海の上のクリスタルハウスの現代版の海の側のガラステラスハウスとか、自分のツインソウルのような人生のパートナーの女性と共に歩む人生とか、そういうこの世的な望みをまだ人生に具現化できていない。

 それ以外でも、特に惜しい所まで近づきながら、あと一歩の所でかなわなかったり、足りなかったりしたケースもいくつかあった。

 「何だろう?」と思っていた。

 最後の扉をくぐり抜け切らない副作用のようなものかとも思っていた。

 それにさっき述べたように、ここ数日特に色々な心の領域が表に出ては消え、それぞれに一理あるようで、路線や意味合いが決まりきらないことに少し困惑気味の印象もあった。
 
 この領域から見たら、それはこういう意味合いだった。

 (最初にお断りしておくけど、人の言葉では表現不可能だ。それを何とか無理矢理記述している)

 すべてを受け入れて、初めてすべてになれ、そしてそのすべての中から意識をせずとも、最適なものを自分が無意識の内にチョイス(選択)できるのだ。

 あるいはこういう言い方もできるかも知れない。

 最後までかなわないのは、最後の確信が無いから。

 確信という言葉でも足りない。

 本当にそうであることは「信じる」という行為すらいらない。

 ただそうである時、それはそうなのだ。

 だから、欠けているとか、かない切らないとか、表面上そう見えていても、気にする必要は無く。

 何かを埋める努力すらいらず。

 何か問題あるから、果たしきれていない課題があるから、是正する箇所があるから等々すら思い行動する必要も無く。

 ただあり、日々を生きるのだ。

 自らただあって。

 外見上、同じように見えても意識のフォーカスの真髄でまったく話しは違ってしまう。

 また、これは万人のすべての状況に当てはまるものでは無いかも知れない。

 これは、最後の課題とでも言うべきものだ。

 ある意味では極めるだけ極めても、まだ最後のブレークスルーを見ないものがたどる道での最後の課題のようなものだ。

 意識のフォーカスと言うより、意識の持ちよう。

 意識の持ちようと言うより、意識そのもの。

 もっと言ってしまえば・・・「神の意識になっているのか?」という問題なのだ。

 神に、間違いは無いのだ。

 すべてが正解なのだ。

 でも、これをすべてが正解ですべてがよいのなら、人として何をしてもかまわないからと、極端な例を上げると理不尽な殺人も許されるとかは思わないほうがよい。

 それより・・・殺人の必要性が事実上まったく無くなるということなのだ。

 葛藤の必要性が無く、分離の幻想に浸り二元性に基づいた善悪や優劣のドラマを演じることによる快・不快の感覚に浸らなくてもよいということなのだ。

 自己の否定が無いのである。

 世界への否定も無いのだ。

 ただある。

 存在そのものとして。

 完全に全面的な自己受容の状態で。

 それは神と同じ姿だ。

 では、人としては生きないのか。

 それも違う。

 ああ、もはや言葉では言い表せない。

 そういう領域の話しなのだ。

 やがて、やってくる、すべてが。

 そして自分に最もふさわしいものが。

 セラピーハウスもツインソウルのような人生のパートナーの女性もその他のすべても。

 仮接続を終え、本接続となり、この世界を去る日まで、もはや後戻りすることも無い。

 ある日突然の出来事。

 最後の課題とて、課題ならざる課題なのだ。

 この矛盾をクリアすることなのだ。

 神の意識に至るということなのだ。

 あの「絶対」の「ワンネス」の限りなく近い姿での「相対」の世界への投影として。

 私を生きるということなのだ。

 そういうことなのだ。

 ああ、やっとわかった。

 今まで何度もわかっても、また元に戻ってしまっていたけど。

 今度はおそらく後退は無いだろう。

 それほどまでに意識の中心核が移動してしまっている。

 別の次元。

 別の立ち位置へ。

 やがてこの場所にすべてが追いついて来るのだ。

 すべてが・・・。

 その日を待っているだけでよいのだ。

 待つ必要も無く、待ち。

 ただあるのだ。

 それだけ・・・それだけなのだ。