こんにちは。
はじめまして、矢花正行と申します。
乱痴気騒ぎばかりしているどうしようもない大学院生です。
さて、一回目ということであるが、何を書こうか。
とりあえずは自己紹介でもしておくのが、ここを読んでくださっている方に対しての礼儀というものであろうか。
昨今は個人情報にうるさい世の中、わたくしとて人の子、自身の個人情報が漏れることが怖くないといえば嘘になります。
よって名前とか住所とかは言えない、というか言う必要もないのだが、まぁともかくそのあたりは伏せておきましょう。
さて、わたし自身は上で言ったように、とある大学の大学院生である。
といっても今年入学したばかりのペーペーであり、ホストでいうところの便所掃除である。
まだ右も左もわからない状態であり、M1(いわゆるマスター=修士課程、あるいは博士前期課程の一年生)というカーストの最下層なのである。
齢は23、最近とみにオッサン化が進行してきた気がする。
歯磨きしてたらえずいたり、生え際前線が北上してきたり、変なところから変な臭いがしてきたり……まぁそれはいい。
そして残念ながら男である。
これだけでここを見ようという人は減ることであろう、ただでさえ誰も見ていないのに。
まぁそれもこの際一旦どうでもよい。
専攻は国文学であるが、特に専門は明治以降、つまり近現代ということになる。
よく言われる言い方をすれば、日本近代文学、ってやつだ。
文学研究って一体何やってんだ、って質問には、各国文学や時代などによって変わってくるのでなんとも言えないけど、自分の畑に関して言えば、中学や高校の国語便覧に登場する、皆様おなじみの夏目漱石やら森鷗外やらといった文豪の書いたものをよくよく読み込んで、ただ読んだだけでは見えてこないことを、他の資料を持ってきて照らし合わせてみて自分の論を組み立てよう、というのが大枠なわけだ。
かなり大げさな言い方をすれば、その作品が存在する意義を問う、というようなことになろうか。
人これを論証、あるいは実証という。
蛇足ながら皆さんが日本史で習った「万葉集」とか「源氏物語」といった古典の研究が何をやっているのかというと、主に注釈書を見比べて批判検討し、新説を提起するということをやっている(はず)。
門外漢なので知ったかぶりはやめておこう。
もちろん源氏などのキャノンであれば古注釈が入ることもある。
つまり研究の研究ということになるか。
文学研究は文学研究のために存在する、というジレンマめいた命題にも少なからず関係しているであろう。
それ以外にも本文批評や翻刻などといったテクストの整理も文学研究の一領域である。
今わたしたちが活字本として古今東西の文学作品を享受できているのは、本来整理されておらずめちゃくちゃだった状態の写本や版本を、研究者の方が整理してくれたから、というわけだ(とはいえこれらは氷山の一角である)。
まぁこのように同じ日本文学でも近現代とそれ以前の古典の方法論を比べただけでもかなり違うので、文学研究は一言では語りつくせるものではないということがおわかりいただけるかと思う。
で、まぁここからはこのブログを立ち上げた目的にも関わってくるわけだが、当然のことであるがMの院生というのは最終的には、修士論文というものを書かなければならないわけだす。
学部生の多くが大学での勉強の集大成として卒論を書くのと同じというわけですな。
で、まぁその修論を書く以外にも、院生には推奨されていることがあって、それが学会発表やジャーナルへの論文の投稿というわけだ。
その他にも普段の講義や演習授業における発表だとか、自主的に参加する研究会での発表など、院生はインプットする時間の少なさに対してアウトプットの機会がかなり多い。
もちろん、所属している研究室や専攻・専門などによってケースバイケースであるので、一概には言えないが、Mの研究ってのは誰しもがおおむね上述したような感じだとは思う。
とはいえ普通に考えて一部の天才をのぞいて、入ったばかりの一年生が知識量で先輩方に勝てるわけはなく、上で挙げたようなアウトプットの機会にそなえて、普段からしこしこと知識をたくわえ知見を広めなければならないのである。
そんな人文系院生のインプットといえば、社会科学系みたいに統計があるわけでもない(国語学などは例外であるが)ので、結局文献とにらめっこするということになる。
もちろん文献学としてのフィールドワーク──つまり蔵に埋もれている写本を見にいったり、作家の記念館に草稿を見にいったりなど──はあるが、基本的には図書館などで資料を集め、読み終わったら次の資料へ、というのが普段の研究である。
これは人文系ならば学部の卒論でも同じプロセスである(はず)。
前置きが長くなってしまったが、これが今も昔も、そしておそらくはこれからも変わらないであろう一般的な文系院生の普段の勉強である。
ここまで言って何が言いたいのかと言うと、要するに何をするにも本を読まなければ、話が始まらないのである。
繰り返すがこれは至極当然の話なのであり、わたくしは何も新しい研究法を考えようとか、勉強方を教えようとかいうつもりは毛頭ない。
ここまで読んで「当たり前のことをドヤ顔でくどくどと語るな」とツッコんだあなた、行間を読む力を共に鍛えよう。
閑話休題。
なぜこのブログを開いたか。
目的は単純すぎるくらい単純であり、ただ読書の感想を詳細に書こうというだけの、要するに読んだら読みっぱなしという自分の怠惰を改めるためのものなのである。
詳細に、というのは、たとえばアマゾンやブクログのようなレビューを書くだけならば、こんなブログを開設する必要はないのである。
が、いかんせんこれらはやや簡潔にすぎる、という問題点があるように思われる。
レビューという制度を否定するわけではないが、研究者の端くれとして、インプットした知識を論文を書いたり発表を行うといった知的生産に結びつけようとするならば、やはり、ある程度長くしっかりとした文章を、腰をすえて書かねばならないであろう。
そう考えると論文の練習にもなるかもしれない。
だとしたら公開するのはマズい……が、幸か不幸か、あいにくそんな大層な頭脳はもちあわせていない。
それはともかく、いろいろ考えたら第三者に迷惑をかけずに好き放題書くにはやはり自分のブログが一番いい、ということになろうか。
ツイッターならばより多くの人に開かれてはいるが、いかんせん140文字という制約は面倒くさいし、TLをオナニーツイート(そうじゃないツイートがどこにあるのか、という疑問を呈さずにはいられない挑発的な言辞ではある)で占拠するのはしのびないというもの。
アメブロも最近はツイッターと連携しているそうですが、これはまぁ今は一旦おいておきましょう。
次に読書日記をつける意義についてであるが、誰もが知る古典的名著である梅棹忠夫「知的生産の技術」岩波新書、1969、には、読後のメモは著者にとって大事なところを書き出していくのではない、そんなものは線を引いておくだけで十分だ、といった趣意のことが書かれている。
つまり本筋において重要な箇所を書き出す必要はないというのである。
本に書かれているのだから二度手間じゃないか、ということだ。
それよりはむしろ、それを読んで自分がそれをどう活かせるか、あるいはどう感じたか、つまり自分にとって「おもしろい」と思った箇所を書いていくことが、知的生産に結びつく、というのが著者の主張である。
著者はこれを「著者の文脈」に対して「わたしの文脈」という。
前者が「大事なところ」であり、後者が「おもしろいところ」である。
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なるほど、もっともである。
つまり二つの文脈を踏まえて形成されていく読書ノートこそが理想ということである。
アウトプットを意識したインプットを、と言い換えることもできる。
これは我々皆、普段意識しなくともやっていることである。
すでに言表として形になっているものを自身の知識として取り込む、これをさらに意識的に、パフォーマティブにやろうというのが、読書日記の究極的な目標ということになろうか。
話が少し逸れるが、学術書や研究書の中には、上で言ったようなスムーズな内容の習得を拒むような著作がままある。
特に哲学書などは難解なものも多く、要約をゆるさない性格のものも少なくない。
つまり、アウトプットに活かすどころか、そもそも理解できないものも多いのだ。
なのでこのブログでは、もちろん理想としては上で述べたような知的生産につながる読書日記をこころがけるつもりではあるが、時としてそういう歯が立たない著述に対して、なんとか悪戦苦闘、息切れしつつも通過していくためのトポスとしても機能させたい、というスケベ心というか目論見もある。
話があっちこっちに飛躍しているが、このブログの主旨としてはざっとこんなもんである。
なお量より質にこだわりたいので、下手したら1ヶ月、あるいは数ヶ月に1回くらいの更新頻度になるかもしれない。
というか正直、読み終わるのにそれくらいかかる本じゃなきゃ、ここで取り上げる意義も見出せないというのが正直なところである。
とまれ、あまり肩肘張らずに、普段の読書の一環として気楽にやりたいもんです……がやるからにはそれなりに読める文章書きたいなぁ。あぁ自信がない。
一回目ですが、とりあえず今読んでる小森陽一「構造としての語り」新曜社、1988、にしたいと思います。
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かなり長いので1ヶ月はかかる……かな。
もしかしたら2周するかも。
まぁ6月中くらいにテストも兼ねて上げてみます。
それでは今日のところはひとまずこれで。
あ、言い忘れてたけどツイッターとブクログもやってるのでよろしく。
Twitter→Changeling_
ブクログ→changeling
5月30日追記
当初、「構造としての語り」を予定しておりましたが、気まぐれで改めて入門書で理論を一望して復習しておきたいという例の(?)スケベ心が発動しましたので、急遽予定を変更して、T.イーグルトン「文学とは何か」大橋洋一訳、岩波書店、新版1997年、にしたいと思います。
一回目を逃したらこの本をやるタイミングを逃しそうですしね。
これもやっぱり大著なのでじっくり時間をかけて読み直してみます。
1ヶ月くらいで帰ってこれたらいいのですが。
小森陽一は次回以降にいつか必ずやります。
もちろん「文体としての物語」もセットで。
それではでは。
新版 文学とは何か―現代批評理論への招待/テリー イーグルトン
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