この前の土特の国語に、荒川洋治「日記をつける」が教材として使われていた。

 

娘の復習に付き合って読んで、「なるほどー上差し」と共感。

 

【本文より抜粋】

日記は自分のものだから。だから、感情面の出来事についてはいつもほんのちょっとだけ、事実と、ずれたものになっている。だから、④ほんとうのことは日記のなかではなく、そこからちょっとだけ離れたところにあるのだ。そう思えば元気も出る。

 

【下線④の設問解答】

ありのままとは少しちがうことを日記に書いたとしても、自分にとってほんとうのことを見失うわけではないと分かれば、日記を書く意味はあるのだと思えるということ。

 

【本文より抜粋】

日記は自分を笑うことでもある。「うれしい」なんて書いたりしたて、いいのかな、調子に乗りすぎではないのかななどと思いながら、筆はその「うれしい」ということばに、つながろうとする。そして自分の書いたことばに、にっこりする。「ばかだな」とも思う。自分の批評家がひとり生まれる。その批評家はときどき現れ、消えていく。日記をつけることは、自分のそばに、自分と少しだけ違う自分がいることを感じることなのだ。

 

【本文より抜粋】

日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、きれいになるように思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちのなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。時間のすきをねらって、あるいは寝る前に、ちょこっとつける。

 

【本文より抜粋】

あのひとときが好きだ。それがとても、ぼくには楽しいのだ。つけるときの、そのときのために、ぼくは日記をつけるのだ。

 

いちいちうなずきながら娘の音読を聞いていた。

 

ひらめき「お母さんもブログを書いているから、同じように思うよ」

 

と言いたいのをこらえた。(娘にはブログのことは内緒なので)

 

最近では、忙しかったり疲れていたりしてブログを書かない日が続くと、自分の中で整理されないもやもやが溜まっていく気がするようになった。「日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、きれいになるように思う。」というのと似た感情なのかな。

 

メモメモメモメモメモメモメモ

 

ところで、娘の学校では、あまり日記の宿題が出ない。出ても毎日ではなく、何日かに1回。しかも量は決まっていないから、いつも5,6行程度。起承転結なんてありゃしない。長期休みのときは、1行日記。

 

だからか、娘の日記はあまり面白くない。(笑)

 

たいてい、「〇〇ちゃんと△△をして遊んだ。途中でうんたらかんたらで、楽しかった。」みたいな感じ。小6でも、低学年のときと内容や表現が変わらない。

 

これじゃあ、国語の記述も上達しないよね指差しと納得。

 

私が小学生のときは、毎日日記の宿題があったものだ。好きではなかったけど、苦ではなかった。時々私の母が私の日記を読んで楽しんでいたようだ。

 

たまに、「我が家の恥を書かないの!えー」と母に文句を言われた。

 

私が小1のとき、当時車の免許取得前だった母は、仕事にバイクで通っていた。雨の日、母はスカートの上から雨合羽のズボンをはいてバイクに乗って仕事に出かけた。小1の私は純粋にそんな母をすごいと日記に書いたのだ。

 

母は、恥ずかしかったようだ。当時の担任の先生は同じ町内に住んでいた。

 

私は「勝手に人の日記読まないでよーむかつき」と怒ったものだ。だが、それからは、我が家の恥かも?と思うときは、「ねえ、このこと日記に書いていい?」と確認するようになった。

 

ある日、キッチンで鍋から火があがったときがあり、すぐに消し止めてボヤにもならなかったのだが、かなりドキドキした私は母に聞いた。

 

キョロキョロ「このこと、日記に書いていい?」

ムキー「あほ! ダメっ!!」

 

そりゃ、そうだ。

 

あれから、うん十年たった今。

 

こうしてブログで我が家の恥をさらしている。