前回は風の嬢への入口について
お話しましたが今度は自分自身について。


最初の自己紹介にもあるように
私は産まれてすぐ親が離婚。
お父さんの顔は写真でしか見た事ない。


そこからおばあちゃんと一緒に暮らすように。
お母さんは若くして私を産んだこともあり
家には全く帰って来ず男の元へ入り浸る生活。


それでも私にはおばあちゃんが居たから
寂しくはなかったけど、今でも記憶してるのは
週に一度だけおばあちゃんの仕事の都合で
保育園のお迎えが行けなくてその日は母親が
来てくれる日があった。
お迎えが終わったらまた男の元へ帰る母だったが
その日は普段会うことない
母親に会うことへの緊張と同時にワクワクする
日でもあったから今思えば寂しい気持ちは
あったのかもしれない。


そこから時が経ち私が小学生になったある日
母親と男の人と3人でご飯に行く日が増えた。
それが週ごとに男の人が変わり2人の男がいた。
(その当時母は二股かけてた笑)


そしてある日のこと母から
「どっちがお父さんになって欲しい?」
と言われる。
幼いながらも母がどちらが好きかなんて
分かっていたからそっちを選んだ。


そうして、母はその男性と再婚。
→ここから怒涛&波乱の生活スタート。
(続きはまた後ほど)

少し題名から逸れて生い立ちになっちゃったけど
今私がここにいられるのは間違えなく
おばあちゃんがいたから。


貧乏な家だったのに私にはそれを
微塵も感じさせない生活をさせてくれた。
どんなに暑い日も寒い日も毎日保育園の
送迎もしてくれた。
暑い日には、
「背中で目玉焼き焼けそうだねぇー」
寒い日には
「早くおうち帰ってぜんざい作ろうね」
そんな些細な会話だけど今でも忘れられない日々。


おばあちゃんが休みの日は疲れてるだろうに
毎週お出かけに連れて行ってくれて
何不自由なく過ごさせてくれた。


思春期に母親とぶつかっても母親から殴られたり
暴言を吐かれても全部おばあちゃんが
守ってくれた。
あんたは本当に素直で優しくていい子なんだから。
それがあったから救われた。


お小遣いもなく、高校に入ると衣服、携帯代
お昼ご飯代、定期代身の回りの殆どの負担を
する為に毎日バイトに明け暮れてたけど
夜遅い時には迎えに来てくれたり、
お小遣いをくれて支えてくれたのも
全部おばあちゃんだった。


そんなおばあちゃんは認知症になり
まだ短大で実家にいた頃は認知症になった
おばあちゃんのことを理解してあげられず
私の方が酷いことを言ってしまうこともあった。


そこから私は実家を出て過ごしおばあちゃんに
会う機会も減っていった。
元々母親が嫌いだから実家に寄り付かなかったけど
おばあちゃんに会うためにたまに帰ると
どんどん私の知ってる
おばあちゃんじゃなくなってるけど
絶対に私の存在は覚えててくれて毎回笑顔で
時に嬉し泣きをして迎えてくれた。


そんなおばあちゃんにありがとうを言えないまま
3年前にコロナからの肺炎でおばあちゃんは
天国へ行ってしまった。
退院手続きも終わり次の日には退院だったはず
なのに、急変してしまった。


コロナということもあり最期は動画での
見送りだったけど涙を零しながらも笑顔の
おばあちゃんの姿が未だに脳裏に残ってる。


おばあちゃんが居たからここまで
大きくなれたよ。
認知症になってからは受け入れられなくて
酷いこといっぱい言ってごめんね。
いつも実家に帰ると旦那さんはまだかね?
と笑顔で聞いてくれたね。
間に合わなくてごめんね。
もしその機会が出来たら一緒におばあちゃんの
いるお墓に挨拶に行くからね。


おばあちゃんとの写真、おばあちゃんから
もらったたくさんの思い出は私の宝物。


そして私はおばあちゃんが天国で安心して
見守って貰えるように生きることを決意したよ。
(ここに至るまでにも壮絶でした笑)