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 目的志向性のない現代の若者を描いているんだろうけど、混乱を混乱のままに描いているだけで、解決や光明へと至る道筋を見い出そうとする意識が感じられない描写を読み終わって、 「なんだかなぁ~~」 という疲労感を持ってしまう。

 

 

【創り過ぎ】
 気持ちが沈んでいくのを止められないまま津奈木の携帯に 『死にたいかも』 とメールを送信した。しばらくしてから返信があって画面を見ると、 『大丈夫たよ』 という文章が書かれていて、あたしはその 『大丈夫たよ』 に激しい怒りを覚える。なんだ、たよって。人の生死に関わるメールなんだから読み返すくらいしろよ。こんな短い言葉、打ち間違えんな眼鏡うんこ。お前が死ね。(p.43)
 この部分を読んでいて、可笑しくて笑ってしまったのだけれど、明らかに創り過ぎだろう。
 主人公のキャラクターは、高校生の頃は、エキ子(エキセントリックな子)と言われていたと書かれているけれど、現在は躁鬱の世界に陥っている。奇矯な性格と躁と鬱は、一個人の中で同居するものなのだろうか? ちょっと創り過ぎだろう。
 そもそもからして、鬱が基調の主人公にしては、作品全体の描写が饒舌過ぎるのである。
気質なり性格なりに関して、そこだけ切り離せば分かる部分もあるけれど、全体としては明らかに無理に創り過ぎている。デコボコ。

 

 

【「何のために生きてるんだか」】
 夜寝て昼間起きて働いてという通常の日常生活者の在り方からはずれている 「ひきこもり」 みたいな主人公の私は、同棲している津奈木景の元カノである安堂に言われっぱなし。
「無職で24時間ずっと家にいるのに家のことも何もしてないってどうなの。あなたって何で景と一緒にいるの? お金? 私だってこんなことあまり言いたくないけど、あなた、女としてどうとかいう前に人間としてどうしようもないわよね。何のために生きてるんだか分からないし、景はさあ、あなたのどこがいいと思ってるわけ?」 (p.60-61)
 「何のために生きてるんだか」 という問いに対する答えが、タイトルに示されているらしいから興醒めである。
 『海辺のカフカ』 の中の複数の登場人物のように、一般的な社会規範に従うことなく生きながらの生活の中で、意志的に何かを探していたり、あるいは感じ取ろうとしている趨勢を感じられるのならまだしも、この小説の主人公の精神は、以下の記述に見られるようにバラバラである。
「頭おかしいのってなおるのかなあ。あのさ、あたしいっつも津奈木に頭おかしいくらいに怒るじゃん? 怒るのとかものすごい疲れるんだよ。なんで怒ってんだか分からないし、自分で自分に振り回されてぐったりするし、でもがんばろうと思ってバイトにいってもすぐ鬱になるし、鬱なおっても躁になるし、躁が落ち着いたらどうせまた鬱が来るんだとか考えたら、もうどうしていいか分っかんない。ねえ、わたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ? 雨降っただけで死にたくなるって、生き物としてさ、たぶんすごく間違ってるよね?」(p.109-110)
 実際に、この小説の主人公のような人格が存在するなら、何らかのショックから魂が消えた(魂消た=たまげた)状態になり、さらには脱魂状態が長らく放置されたことから、浮遊霊に魂を占領されて人格が分裂気味になってしまっているのだろう。そんな状態の人に対して 『生きているだけで、愛』 という表現は、単なる糊塗以外の何物でもない。全然いただけない。
 “生きているだけで疲れてしまう” のは、自らの魂が自分自身の主人公たりえていないからである。本人どころか周りの人でさえも振り回されて散々な目に会い “生きているだけで疲れてしまう” のである。
 もしも、本当に精神失陥の人であるなら、 『生きているだけで、愛』 という表現で、とりあえず緩和的に救済しておくしかないのだろう。
 瘋癲気質の精神が著す文学って、正直なところ、ちょっと付き合いきれない。
 精神障害者と真摯に付き合おうとしても、畢竟するに堂々巡りで大層虚しいのと同じである。

 

 

【知ってほしい、分かってほしい】
 表紙の絵に絡む記述だから、書き出しておいた。
 津奈木のセーターに顔を埋めながら、半分独り言のように言う。「北斎が五千分の一秒の富士山を描けたのって、やっぱりその瞬間お互いの中で何かが通じ合ったからだと思うんだよね。だって北斎より富士山のことを分かろうとした人間ってたぶんいないだろうし、富士山は富士山で自分のことを何から何まで知ってもらいたくて、ザッパーンの瞬間をわざと見せつけたはずなんだよ絶対」 (p.113)
 北斎を津奈木に、富士山を自分に喩えて語っているんだろうけれど、 “富士山が自分のことを知ってもらいたくてザッパーンの瞬間をわざと見せつけた” とは到底思えない。瘋癲系精神が抱く自己中な解釈だろう。
「大波に呑まれてしまいそうな私のことを、知ってほしい、分かってほしい」 という期待が強いのは理解できる。
 私と津奈木が、破綻せずに一緒に生活できているのは、同系の精神性を有しているからなのだろう。丁度、 『シュガータイム』 の中に描かれていた、吉田さんと 「対話療法」 のパートナーのように。
   《参照》   『シュガーターム』  小川洋子  中央公論社
             【含まれあっている】

 

<了>