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 著者は映画の字幕を書いている方だから、多くの方々はこの著者名に記憶があることだろう。巻末に著者が担当した映画の名称が500ほど掲載されている。
 字幕作成という仕事に興味がある人には参考情報が多いだろうけれど、エッセイとして期待している読者にとって、満足できるかどうか・・・。多分満たされない。

 

 

【字幕国日本】
 世界の国々で外国映画を上映する場合には、ほとんどが吹き替えで、字幕が主流をしめているのは日本だけである。 ・・・(中略)・・・ なぜ日本では字幕が定着しているのか、これはとても興味深い問題である。(p.7)
 まったく。
 著者は、その理由を以下のように書いている。
 日本というきわめて均一で小さな島国に住む私たちは、それだけに言葉も含めて外国文化をもっと知り、それに触れたいという気持ちが強い。トルコ映画を初めて見るときは、はじめて耳にするトルコ語を聞き、映画そのものを楽しむ以外に、「トルコ語とはこういう響きの言葉か」 という発見をしたい。それではじめて 「トルコ映画を観た!」 という感動が生まれるような気がする。(p.8)
 日本人の多くは、本来の大和言葉である訓読みと、中国由来の音読みですら、実際は音の質感を感じとって使い分けている。こういったことは言霊に起因する日本語特性に依ることなのであろうけれど、そんな日本人だからこそ、字幕映画国としての文化が保たれているのだろう。
 その他に、オリジナルを観たいという日本人の本物志向がある(p.11)と書かれている。
 また、字幕映画文化が成立するには条件がある。
 日本人は一人残らず字が読めるという、世界の中でも非常に特殊な条件があったことが幸いしている。人種のるつぼで、たえず外国からの移住者が流れ込んでいるアメリカのことを考えれば、字幕版の映画が普及しないことが容易に理解できる。(p.11)
 こんな状況だから、アメリカでは本来英語を話す筈のない外国人の会話ですら英語になっている(吹き替えられている)と言う。
 日本で映画に字幕が定着した最大の理由は、長年における翻訳作業の蓄積である。
 日本は、明治以来、多くの外来語を日本語に翻訳してきた。ゆえに、外国語に対応する日本語が、ほぼ出揃っている。日本のように、何でもかんでも日本語に訳してきたという積み重ねの前提がない国々では、字幕はありえないのである。大雑把な吹替でいくしかない。
 

 

【ダイ・ハード】
 『ダイ・ハード』 は 「ダイ」 も 「ハード」 もみんなが知っている単語で語感も悪くなく、そのまま使われた題名だが、「壮絶な死に方」 のようにイメージするのは間違いで、「なかなか死なないやつ」 というのが正しい解釈である。(p.24)
 ふう~~~ん。
 だったら、すぐ死んじゃうやつは「ダイ・イーズィー」だろう。チャンちゃんはこっち。

 

 

【原稿上のせりふと、画面上のせりふは別物】
 原稿用紙の上のせりふと、画面に乗ったときのせりふとは別物だということを、こういう具体例を示されてはじめて感覚的に理解した。 ・・・(中略)・・・ その感覚を一般論として教えるのは至難の業である。実例を使い、また実際に画面に乗せてみなければ会得できない。(p.104)
 実例が書かれているけれど、実例が書かれていなくてもこの記述はよく分かる。視覚情報の有無による場面差は大きいのだから。

 

 

【名訳】
 『第3の男』 の中にあるセリフだという。
 “I shouldn’t drink it, It makes me acid.” (私はこれ<酒>を飲んではいけない。これは私を acid にするからね)
 Acid は 「酸性」 の意味と同時に 「不機嫌」 「気難しい」 の意味もある。翻訳者を悩ませるダブルミーニングのせりふだ。
 それが 「今夜の酒は荒れそうだ」 の原文だった。言い得て妙な翻訳ではないか。いまもわたしも到底思いつかないであろう名訳である。(p.121)
 なるほどねぇ~。
 この名訳をなさったのは秘田余四郎さんらしい。 ・・・(中略)・・・ 「酒豪のサムライだった」 と生前をご存知の方がたが口をそろえる方なので、こんな訳は朝飯前だったのかもしれない。(p.122)
 なるほど。だったらきっと晩飯前である。

 

 

【君の瞳に乾杯】
 名訳としておそらく最も有名な 『カサブランカ』 のセリフ 「Here’s, looking at you, kid.」 に関して、
 『カサブランカ』 がNHKで放映されたとき、このせりふに 「君の命に」 という字幕がつき、映画ファンから抗議が殺到したとか。ピントの外れた意訳であるという以上に、これほど有名なせりふは映画ファンのためにも生かしておく配慮がほしい。(p.126)
 まったく。
 この時テレビを観ていた人々の多くは 「えっ?!」 と思ったに違いない。
 それどころか、こけてしまうかもしれない。
 そうでなきゃ、固まってしまたことだろう。
 キザなおにいちゃんが映画を利用しておねえちゃんを口説こうとグラスを用意して観ていたとしたら、それこそだいなしである。グラスの中までコチコチのロックになっていたかもしれない。

 

 

【限界の中で】
 「字幕の良し悪しで、映画を生かしたり殺したりしますからねえ」 などという人もいる。はっきり言って字幕の力で映画をよくすることはできない。80点の映画はどんなに字幕が頑張っても80点である。だが字幕が足をひっぱって、80点の映画を60点にしてしまうことは、可能である。だが決してゼロ点にはならない。画面の力があるからである。
 この限界の中で字幕のうまいへたが存在する。その技術のこつは誰も教えてくれない。また教えようとしても言葉では表現しにくい職人的技術なのである。(p.132)
 これは字幕だけではなく吹き替えのセリフについても言えることだろう。
 最近、テレビで日本語に吹き替えられかつ字幕の付いた韓国の映画だかドラマを観ていたことがある。会話と字幕が違っていたので、興味深く目と耳で較べることにばかり意識を集中していたら、ストーリーがほとんど分からなくなってしまったけれど、その比較結果は、当たり前であるけれど、どちらか一方が明らかに劣っているのである。どちらか一方が常に劣っているというのではなく、吹き替えのほうがいい時、字幕のほうがいい時、という具合でたいてい順番なのである。
 つまり鑑賞者は、字幕なり吹き替えなりを担当する一人の翻訳者の力量にまったく支配されているのである。もっともこれは翻訳小説の場合でもまったく同じことで、100点なんて決してありえないのである。

 

 
<了>