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 マニ教についてどう書かれているのか興味があって読んでみたけれど、歴史事典に書かれていること以外の記述はそれほどない。

 

 

【折衷主義的】
 マニ教は、すべての文化を混淆する傾向をもつヘレニズム文化の隆盛期に、古代文明の中心地バビロンにおいて、イラン人でありながら、ユダヤ教系の宗教集団に入っていた両親のもとに生まれたマーニーにより始められた。したがってマニ教はそもそもの誕生から、複数の民族や伝統、神話群と深く関わっていたのである。おそらくマーニー自身も、自らの受けた天啓が、特定の民族やグループにのみ向けられたものとは考えもしなかったことだろう。彼は多様で異質な世界を受け入れ、そこに共通するもの、翻訳可能なものを積極的に取り入れて自らの信仰体系をつくりあげていった。その結果、それはだれにでもとりつきやすいもののようにみえながら、余りにも多種多様な神話や観念、倫理観を呑み込んでいるため、怪物のような複雑さをもつものになってしまった。マニ教は史上まれにみる折衷主義的な宗教である。(p.6-7)

 

 

【マニ教の二元論】
 マニ教の思想は折衷主義的な二元論にもとづいている。マーニーによれば世界は対立する2つの原理からなりたっているという。一方は光で他方は闇である。光は霊的なものであり、闇は物質的なものであった。この点では同じ二元論でも善悪、生命と死の対立を根本とするゾロアスター教の二元論とは異なり、ギリシャ哲学の二元論の影響を感じさせる。マニ教の物質や肉体にたいする嫌悪感は極めて強く、その現世否定は仏教の影響と考えさせるほどである。(p.31)
 ふぅ~~ん
 この世界は物質であるかぎり、闇の力であるアフリマンの支配下にある。しかし、グノーシス(知識)をえた人びとが少しでも光の元素を救い出そうとするので、戦いは続いている。囚われの光の粒子は、閉じ込められている物質が壊されると開放される。それは、まず 「光の柱」 をとおって月に集められ、月が満ちると太陽に移され、その後 「新しい天国」 に呼び集められるという。いずれ光と闇のあいだに最終戦争がおき、そのとき、イエスが正邪をわける判事としてあらわれる。
 月と太陽に関する記述があったので、書き出しておいた。
 最期の記述は、露骨にキリスト教的である。マニ教には、いろんなイエスが登場する。

 

 

【マニ教の隆盛と衰退】
 折衷的な教義をもつマニ教は、相手の宗教を否定するのではなく、むしろ積極的にその宗教独自の概念や神話を取り込んでしまうので、当時、イランの正統として確立していたらしいゾロアスター教は、議論をしにくく、徐々にその地盤を侵食されていったらしい。
 しかし、最終的にイランにおいてマニ教は衰退してゆく。世俗の政権の後ろ盾をもたなかったからだという。
 マニ教が拡大している時期、折衷主義は長所として機能するけれど、いざ衰退期になると、それぞれの宗教から異端とみなされ弾圧されるようになる。折衷主義という独自性のなさは、そのような宿命をもっている。

 

 

【中国のマニ教】
 694年、マニ教の教師(佛多誕)ミフル・オフルミズドが、はじめて唐の宮廷を訪れ、則天武后と会見してマニ教の信仰を説いて布教が許された。(p.70)
 祆教(ゾロアスター教:631年)や景教(ネストリウス派のキリスト教:635年)より遅い。
 マニ教は、バビロニア伝来の天文学と暦の知識が魅力となり、急速に拡大していった。それに怖れを感じた唐朝は732年に中国人の改宗を禁じる法令を出したという。
 758年に起こった安氏の乱を鎮圧することに功績のあったウイグル族の王ヤブク汗はマニ教をウイグルの国教とした人物であった。そこで、
 768年にはウイグル人のために長安にマニ教寺院大雲光明寺が建てられた。(p.71)
 長安以外にも、洛陽など揚子江流域に複数の 「大雲光明寺」 が建てられた。この時期、マーニーは道教の始祖老子の生まれ変わりであるという折衷説も取り入れられていたという。
 しかし、やがて・・・

 

 

【会昌の弾圧】
 中国各地でウイグルにたいする反感が吹き出し、ウイグル人の巣窟とみなされた各地のマニ教寺院が破壊された。842年から4年間続いた武宗による 「会昌の弾圧」 は、マニ教のみでなく、仏教をも含むすべての外来宗教を弾圧したものであったが、マニ教の受けた打撃は大きかった。
 仏教では、寺院4600寺が廃され僧尼26万5千人が還俗させられたので、「会昌の法難」 と称している。(p.72)
 さすが中国。やることが派手である。
 会昌とは当時の年号のこと。
 この難を逃れたマニ僧は、福建の泉州に移り、秘密結社のようにして存続したらしいけれど、15世紀ともなると、マニ教は中国から完全に姿を消してしまったという。

 

 

<了>