〈前編〉 より

 

 

【大石凝真素美(おおいしごりますみ)1832~1912】
 大石凝という姓は天の岩戸開きのとき、鏡を鋳ったという石凝姥命(いしごりどめのみこと)(記・伊斯許理度賣命) にちなんだものである。一方、真素美の名はもちろん、「ますみ(真澄)の鏡」 に由来する。姓も名も鏡に関係しているわけである。
 つまり、明鏡のごとく澄んだ魂になると何でも観えてくる、ということを名前で示したものである。そして、何でも観えてくるという点では、大石凝真素美という姓名は、鏡作りの親神の石凝姥命にちなむというより、その働きはむしろ、天目一箇命のほうに相応しいかもしれない。(p.168)

 

 

【 『真訓古事記』 】
 大石凝真素美は、アマテラスとスサノヲの誓約の舞台、即ち 「天の安河」 は琵琶湖であると語っている。
 下記にある同書とは 『真訓古事記』 のことである。(p.172-173)
 大石凝は琵琶湖の霊性について、同書の中で琵琶湖を 「人類成り立ちの極元」 と捉える。(p.172)
 日本列島の形状は龍体に似ており、その各部位もそれぞれに対応している。琵琶湖は 「人類成り立ちの極元」 であるから 「子宮」 である。古代の琵琶湖が、火と水によって成る製鉄産業の集積地であったという事実も、見事にこれに符合する。
 

【 「日本語学」 】
 続けて大石凝は 「日本語学」 について、次のように書く。
 「日本語は円明正朗なる声が75声あり、この75声を写真に正列したる鏡を太古より真須鏡という。この真須鏡は日本全国の地体と密合して居る。故に人の体と密合している。又人の心の全体と密号して居る。依って人の心の活機運転する数が七万六千七百二十九あるなり。故に言辞の活機(ひろ)がる数が七万六千七百二十九あり、今茲にはこの言辞語学の一通りを説明するなり。支那などが礼儀三百成儀3千などという妄儀に非ず。みな真説、明解あり」  (p.173-174)
 76729は、277の二乗であり、277は1,2,3,5,7・・・と数えて60番目の素数なのだという。60は言うまでもなく還暦の数である。
 既に、大石凝の語った日本語の真奥を解明している人々はいることだろう。本書のタイトルである 「第三の目」 に象徴される霊性をもった人々のはずである。

 

 

【イズノメ】
 伊豆能賣だったり伊都能賣だったり、音に漢字をあてるから様々に書かれる。
 出口王仁三郎の弟子である岡田茂吉によって語られたイズノメ神観。
 岡田茂吉のイズノメ神観は、日本の神の本地がインドの仏であったという、従来の本地垂迹説を真っ逆さまにひっくり返した神観を提示する画期的なものだった。(p.214-215)
 「素戔鳴尊を中心とする朝鮮の神々が渡来し、その頃、日本における最高位にあった伊都能賣神の地位を狙って迫害に及んだため、急遽、位を棄てインドに落ち延び、観自在菩薩の名によって、当時のインド南方海岸にあった補陀落迦(ふだらく)という名の余り高くない山の上に安住した」 という概要。
 岡田茂吉は昭和10年の 『観音講座』 の中で、伊都能賣大神は金龍となり、近江の琵琶湖に潜んだとも述べている。つまり、伊都能賣も天目一箇命も琵琶湖と深い縁があったことになる。(p.216)

 

 

【結語】
 アメノマヒトツは縄文起源の総合技術神であり、古代日本文化の担い手であった、というのが著者の結論である。 ・・・(中略)・・・ 。
 だが、天目一箇命は零落したとはいえ、マヒトツは縄文起源の山人系の技術神である。しかも、マヒトツは〈天の目〉をもっている。宇宙開闢を見、人類の歴史を眺めてきた古代神というより、超古代神としての貌もある。そこまで大げさにいわなくても、縄文以降の弧状列島の住民の歴史を、体験的に片隅から片目で見つづけてきたことは事実だ。(p.240)

 今、天目一箇命は単なる片目(一つ目)の鍛冶神としてではなく、宇宙開闢を見てきた〈天の目〉をもち、さらに、もうひとつの埋没神である〈伊豆能賣〉の神格を併せもつことによって、地球の循環の狂いを直そうとする、ス神としての甦りを期待されているのである。偽装を見抜く目も、もちろん天目一箇命はもっている。
 われわれは〈天の目〉をもたなければならないのである。(p.242-243)
〈天の目〉 をもつとは、霊性開眼するということ。人類全てがこうなれば、全てを見通す能力ゆえに、邪悪なものが存在できなくなるのである。
 悪心、邪心、人に見えぬと思うが故に我を利する心、それらすべてを互いに見通すことができれば、世界は、かつて天目一箇命や伊都能賣が統べていた時代のように、清らかで安定したものになるのであろう。
 今、地球は、宇宙の周期率的巡りから、そのような人類に進化させる帯域に向かいつつある。
 
<了>