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 1973年ニューズウイーク誌テレビ特集版において「インタビュアー世界ナンバーワン」の評を得、ほぼ同時にワシントンポスト誌も「時の人」として取り上げ、国際感覚に優れた、世界でも希有な女性と評し称賛した。(p.182)という、著者の過去のインタビュー記録の中で、美女たちへのインタビューを中心に、近年あらためて編集された書籍。

 

 

【女性は男性にとって 『最低で最愛の存在』】
 フランス国民の「永遠の恋人」、知性派女優のジャンヌ・モロー。
 悪人でも娼婦でも、一本筋の通った女性像を演じさせたら右に出るものはいないジャンヌ・モローは、この「新しい波」が、表現しようとしている人物に欠くことのできない女優として、フランス中から敬愛されたのでした。
 ----- これまで演じた女性について、どう思いますか?
 「男性が女性を見るには、不思議な混乱というか、論理では片付けられない独特の見方がありますね。女性は男性にとって 『最低で最愛の存在』 なんです。言い方を変えれば、聖母マリアと娼婦を求める気持ちが同居している、とでも言いましょうか。そういう男性と平和的に共存するには、どうしたらよいのでしょう。そういう男たちと人生の幸福を分かち合うことなんて、できるのでしょうか。 (p.55)
 このジャンヌ・モローの見解に、「その通りです」と頷ける人々ってどういう人々なのだろう、とチャンちゃんは思う。ということは、チャンちゃん自身が人間を心底理解していない未熟者ということなのだろうか?
 『知と愛』 を書いたドイツ人のヘルマン・ヘッセなら別な表現をするに違いないと思う。 

 

 

【フランソワーズ・サガンが描いていた “倦怠感” の先にあるもの 】
 フランソワーズ・サガンというのはペンネームでした。本名はフランソワーズ・コワレと言いますが、確かにサガンという名前の方が詩的で作家という職業にふさわしい感じがします。サガンという筆名はフランス文学の名作中の名作、『失われた時を求めて』 の作中人物から取ったというのです。それもまた素敵。 (p.82)
 本名もサガンの由来も、どっちも知らなかった。
 フランスはいま、とても退廃的な国になっています。かつてはもっとよい国だったのに。いまやお金に支配される国になってしまっている。  (p.87)
 大学時代、サガンの小説の中に “倦怠感” を嫌というほど感じていたのだけれど、 “倦怠” の先には “退廃” があることを容易に推測できていたであろうに、サガン自身がこのようなことを言っていることに、やや意外な感じを持ってしまう。
 フランスという国の精神世界に思いを巡らせてみるのはおもしろいのではないだろうか。
 フランス国民は、人生を巡る不条理な問いに哲学的に答えようとしても答えは見つからず、結局は 「もともと不条理なのだから・・・」 と回答を見出す努力を放棄してしまったか、あるいは、答えを模索するのに嫌気がさして、 “恋愛の世界” に逃げ込んでしまったのではないだろうか。
 おそらく後者だろう。フランス国民が一丸となって、コンドーム消費量世界一の国家として肉体実験を実施し続ける過程で、根深い倦怠感に覆われつつ茫然自失している合間に、奸智に長けた者たちによって、経済的に国家・社会が乗っとられ、経済的にも精神的にも退廃へと向かわざるをえない国へと加速的に変容してしまったのだろう。加速した要因としてもう一つ、文化国家としての重圧もあるかもしれない。
 日本も数十年遅れて、フランスと同じ轍を踏まされているように思えてならない。  

 

 

【シャーリー・マクレーン】
 取材で会ったマネージャーは 「シャーリーはインドやベトナムで孤児の救済活動などをやっています。それも匿名での基金を設けて、マスコミにも知られない活動を続けているのです。チャリティや公民権運動にも熱心に取り組んでいます」 と語ってくれました。
 ニューヨークの中心街で市民インタビューしても、・・・(中略)・・・「女優だからではなく、市民として共感するところがある」・・・(中略)・・・と、何人もが異口同音に賞賛するのでした。人間的な面をこんなに褒められる大スターがいることに、少なからず驚きました。   (p.106-107)
 チャンちゃんがシャーリー・マクレーンを初めて知ったのは、女優としてではなく、『アウト・オン・ア・リム』 から始まる一連の作品の著者としてだった。美脚に保険をかけていたとかいう話は、後々知ったけれどどうでもいいことだ。
 『アウト・オン・ア・リム』 に興味を持つような人々こそが、シャーリーの真の同胞なのだろうと思っている。
 
<了>