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 アメリカで初めて旅客機のパイロットになった日本人女性。
 先天的な強運と特殊な個性の持ち主なのだろうと思ってしまいがちだけれど、読んでみると、意外にも “普通の女性” という感じだ。普通の人と違うとすれば、“夢を決してあきらめなかった” ことであろうか。

 
【 “子供のころから何をやっても長続きしないタイプだった” という著者 】
 わたしは子供のころから何をやっても長続きしないタイプだった。ピアノを習ってもすぐに飽きてしまうし、バレエの 『白鳥の湖』 を見ると、「わたしもバレエがやりたい」 と言いだし、あげくに先生にちょっと厳しくされたからといってやめてしまう。それでも母親は、「ヨッコは好奇心があっていいね」 と次から次に習い事に手を出すわたしを、決して叱らなかった。だけど、そんな自分の弱さを一番感じていたのはわたし自身だった。
 パイロットという夢にこだわり続けたのも、子どものころから何ひとつやり通せなかったことに対するコンプレックスがあったからかもしれない。憧れるだけで、何もできない自分。・・・(中略)・・・。きっとわたしは、“何かができる自分” になりたかったのだ。与えられた環境のなかで流されていくのではなく、自分の足で人生をあるいていける自分になりたかったのだ。 
 わたしが唯一、子どもの頃から抱き続けていたのは、“パイロットになりたい” という思いだけだった。
 “この夢を捨ててしまったら、わたしはもう二度と、自分の人生を自分の足で歩くことができない”
無意識のうちに、わたしはそう思い続けていたのかもしれない。
だから今度こそ逃げ出すわけにはいかなかった。 (p.98-99)
 4歳か5歳のころ羽田空港にドライブに行き、ジャンボジェットを見たことが、パイロット志願につながっていったのだという。そして、小学生のとき初めて国内線に乗った時の興奮した様子が冒頭に記述されている。
 それにしても、“子供のころから何をやっても長続きしないタイプ” だったとあるのを読んで、この本にさらに興味が湧いたであろう読者は多いに違いない。
 アメリカで夢を追っている過程でも、すんなりコトが進んだわけではない。旅客機のパイロットになるまでには、いくつものハードルや困難があったようだ。
 

 

【トニー・イライアス】
 ヨッコ(著者)が学んでいた航空学校の教官。計器飛行の実習で出会ったのだという。
 最初のレッスンで、「ここでは無理だ」 と言ったのも、(語学力の問題で)レッスンに時間がかかって、経済的な負担が大きくなることを心配してくれたからだった。時間がかかれば、それだけトニーにとっては、“いい仕事” になるのだが、彼は自分のことより先に人のことを考えてしまう。ごはんさえ満足に食べるお金もないのに、募金活動をしている人たちを見ると、なけなしのお金を寄付してしまうような人だった。 (p.105)
 ヨッコには、裕福な家庭で育った実業家志向のOくんという日本人のボーイフレンドがいたけれど、後に結婚したのは、人生の将来設計さえままならないトニーだった。 “翼という夢” がポイントだった。
 ヨッコとトニーとの関係が記述されている部分を読んでいて、 『Always』 という映画を思い出していた。映画は森林火災の消火にあたる飛行機乗りの物語だったけれど、ヨッコとトニーの関係を、ホリー・ハンターとリチャード・ドレイファスの関係に重ねてイメージしていたのだ。ヨッコをホリー・ハンターに重ねるのはよいとしても、掲載されている写真を見ると、トニーのヴィジュアルはリチャード・ドレイファスにぜんぜん似ていない。でも、ハートは共通している・・・・・・。

 

 

【教官となって】
 生徒の立場から教官の立場に変わったけれど、競争社会のアメリカで夢を実現する上で、厳しい現実が立ちはだかる。
 彼らは生徒なのだからできなくて当たり前なのに、つい、「どうして、そんなこともできないの!」 というような辛らつな言葉を投げてしまったことがあった。それはやっぱり、わたしの精神状態が普通じゃなくなっていたからだと思う。将来への不安のうえに、自分で自由に空を飛べないフラストレーションも重なっていた。 (p.133)
 月収はよくて10万円程度にしかならなかった。ビスタでは同時に二人の生徒しか持たなかったので、収入はもっと少なく、わたしはお金を稼ぐために、日本食レストランでウエイトレスのアルバイトをしたりもした。(p.151)
 
 
【貨物輸送のパイロット】
「天候が悪いと飛ばないヤツ」 と思われたくないという気持ちは強かった。パイロットどうしの競争に負け、仕事をもらえなくなるのではないか、とても気がかりだったからだ。 (p.172)
 小型のセスナ機では、乱気流に巻き込まれた場合、危険度はとても高いらしい。また寒冷な空域で翼に氷が付着してしまった場合は、人生の終わりを意味する。
 パイロットは飛んでから 「飛ばなきゃよかった」 と言うより、飛ばずに 「飛べばよかった」 と言うほうがずっといい。なぜなら、それは “生きている” ということだからだ。 (p.173)
 
 
【夢飛行】
 トニーはユッコより先に、念願かなってホライズン・エアに採用されていた。双発機のキャリアで835時間を越えたところで、ユッコにも面接の連絡がきた。
 1995年6月12日。快晴。エアライン・パイロットとしてのわたしの新しい人生のフライトが、ようやく始まった日だった。ゲンさんのレッスンで始めて単独飛行した日からちょうど6年がたっていた。  (p.192)
 わたしが乗り込んだダッシュ8というジェットエンジン付のプロペラ機は最大乗客数37人。わたしの 「ホライズン・エア」 デビューであるこの日は、ほとんど満席の状態だった。 (p.188)
 
 
【祝福】
 読売新聞ロサンゼルス支局の記者から取材依頼がきたという。
「えっ、取材? わたしにですか?」
「ええ、日本人初の女性旅客機パイロットとうかがいましたが」 (p.196)


 送られてきた記事を見てびっくり。読売新聞ロサンゼルス版の1面の半分くらいのスペースに、写真入で大きく載っていたのだ。とても照れくさかった。 (p.197)
 日本の両親への報告のつもりでその新聞を送った。
 しばらくして、日本から1通のエアメールが届いた。いつもは母からばかりだったが、久しぶりに父からの手紙だった。
 『・・・自分の信念を曲げずに、今日までつらいことにも立ち向かいがんばってきた嘉子の努力がお父さんはうれしくて、感激しています・・・』
 心の中では心配していただろうに、けっして何も言わずにわたしを見守り、応援してくれていた父。母とは電話でもよく話し、手紙のやりとりもあったけれど、父はどれだけわたしの無事と成功を祈ってくれていたことだろう・・・。
 わたしは何度も手紙を読み返した。
 そのたびに涙があふれて頬をつたった。 (p.198)

 

 

【コックピットからの風景】
 快晴の日に洋上を飛行している時、綿菓子のような雲が眼下に点在する御伽噺のような風景を見たことがある人は多いだろう。あるいは早朝や夕暮れの時間帯に太陽が演出する奇跡的な情景を目にしたことのある人々も多いかもしれない。しかし、コックピットからでなければとうてい味わえない世界がある。
 夜、コックピットから眺める夜空は、夢のような世界だ。天の川が手に届きそうなところにくっきりと浮かび、プラネタリウムで見るよりももっと多くの名もない星たちが、思い思いに光りを放っている。
 人が生きるということは、あの星たちのように輝き続けることなのではないだろうか。だから、わたしはいつも夢を追い続けていたいと思う。いつまでも自分らしく輝いているために。 (p.219)
 

<了>