イメージ 1

 英文学者、評論家の肩書きを持つ著者が著すこの書籍のキーワードは、 “絶対音感” ならぬ “絶対語感” である。

 

 

【絶対語感】
 絶対語感は、ことばを使うすべての人が、無意識に持っていることばの規範といえます。文法、発音、語彙、調子、アクセントなどはすべて、この絶対語感によって、決定されます。ひとりひとりの絶対語感は、自覚する、しないにかかわらず、それぞれ微妙に異なります。 (p.42)
 絶対語感は、いわば、ひとりひとりに固有の「ことばのルール」ということもできます。そのルールは、ほぼその人の一生にわたって、すくなくともかなりの長い時間、変わることがありません。その人だけがもつ「ことばの個性」です。 (p.45)

 こどもは母を中心とする家族、まわりの人たちと生きていく日常の中で、ことばを身につけます。母親などがくり返し、くり返し使うことばをこどもはひろって、すこしずつ、しかし、急速に覚えます。・・・(中略)・・・。何よりもくり返しが大切です。・・・(中略)・・・。くり返しくりかえし聞いていることばは、やがて、ほとんど意識されなくなります。考えなくてもわかり、教えられなくても使えるようになります。習慣化するわけで、これが絶対語感になります。 (p.178)
 母のことばは絶対語感をつくりあげ、この絶対語感が進化して “こころ” になるということです。
 母のことばから生まれた絶対語感が、こころを生む母だというわけです。  (p.179)
 優美な日本語の話し手であるとまで自信の持てない母親は、昔から歌い継がれている童謡をくり返し子どもに聞かせてあげるという方法がある。昔から歌い継がれている殆どの童謡は、優美な大和言葉で歌われているのだから、秀でた絶対語感の先導役をはたせるはずである。
    《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編>
              ■ 音読みの日本語 vs 訓読みの日本語 ■

 

 

【「アルファ読み」と「ベータ読み」】
 このように、わかっていることの書いてある文章は、読んでおもしろく、よく分かります。こういう読み「既知の読み」を、かりに「アルファ読み」と呼んでおきます。
 これに対して「ベータ読み」という読みかたがあります。書いてあることが、読者のまったくしらない、未知のことがらの場合です。 (p.63)
 著者は、「ベータ読み」こそが本当の読書であるが、「アルファ読み」はできるけれど「ベータ読み」ができない、いわば半読者にすぎない人々が増えていることを指摘している。
 「アルファ読み」はデータを集めるということ以外には、ほとんど意味がありません。 (p.74)
 速読法については、以下のように書いている。
 そんなに早く読めるような本は、そもそも読む価値がないのだともいえます。  (p.74 -75)

 

 

【本当の読書】
 しっかりした読書は、たんなる多読ではありません。たんなる精読でもありません。じっくり、なめるようにして読むものです。一度で分かってしまおうというのも、思い上がりです。2度読み、3度読み、それでも足りなくて、4度5度と読み返す。そういうことができるのが、本当の本であり、それを読むのが、本当の読書なのです。 (p.75)
 これは、つまり、『四書五経』 を教材として素読から始める江戸時代に行われていた教育方法に該当する読書方法なのだろう。意味など分からずとも、まずは素読によって読み方を覚え、その後、長ずるに及んで徐々に意味が分かってゆき、生涯をかけて真意に届く、という風な、深~い深~~い、息の長~い長~~い読書を言っているのだろう。
 古典の素読を経験していない我々現代人は、自ら真意に到達できるような本当の読書家にはなれないかも・・・。

 

 

【室内語を元とする日本語】
 もともと日本語の語感は、室内のことばを美しいとしてきました。室内のことばだから、母音が多く、優しい印象を与えることばだったのです。これに対して、ドイツ語のように、長い間、森の中で生活していたとされる民族の語感は、強い子音がよくきいているため、力強いけれども、荒々しい印象を受けます。
 ところが、このごろ、日本語に絶対語感の変化が起こっているようです。ひとつには、日本語が、室内から戸外へ向けて動き出したためだと思われます。 (p.141-142)
 戦争の時代に作られた軍歌は、意図的に外向的な気質をかもし出す音読み(漢語読み)で作られていた。童謡や演歌や平和な時代に歌われている流行歌は殆どが内向的な雰囲気を漂わせる訓読み(大和言葉)で作られている。
 著者が指摘するような絶対語感の変化が起こっているのは、現在の日本が、国際化の時代に巻き込まれる過程で生じているのだろう。
 このような語感の変化を確認しやすいのが、こどもの名前だという。
 こどもの名前ほど、日本語の変化をはっきりと表しているものはありません。 (p.144)
 50年くらい前までの女の子の名前を見てみると、
 ゆき ゆみ きく きみ きり すみ くみ ふみ ふゆ 
 のような名前が多く、ローマ字に直してみると、i の音と、u の音が目立つ。
 近年の名前は、あや まや まな さなえ わか さやか かな などで、a の音が目立つ。
 i 音は、小さなかわいいものを示すのに適し、a 音はどちらかというと、大きく開かれた感じを与える。 (p.143-147)

 

 

【イギリス人にとっていちばん美しい言葉】
 かつて、イギリスのある小説家が、英語でいちばん美しいのは、pavement (ペイブメント=舗道)だと言っていたのを、思い出します。ふつう、美しいことばといえば、音の美しさをいうのでしょう。ペイブメントが美しいと感じられるのも、音の美しさです。 (p.151)
 B・ストライザントが歌っていた名曲、 『Memory』 の歌いだしの部分にこの単語が出てくるのでよく覚えているけれど、音の美しさの感じ方に、日本人とイギリス人では大きな違いがあると思わざるをえない。
 日本人の言霊感覚から言って、pavement のような強く鋭い音感の言葉は、とてもではないけれど美しいと形容するに値しない。

 

 

【日本語の一つの特性】
 外国人が、日本の小説などを読んで感心するのは、日本語の会話は、男女ふたりなら、どちらが言ったのかすぐわかることだといいます。英語などだと、とてもそういう具合にはいきません。だれが言ったか、いちいち、はっきりと明記しなくては、わからなくなってしまうのです。 (p.170)
 こんなことが日本語について感心する点(特性)になっているなんて! と、意外に思う人が多いと思う。 
 ところが、「 “食う” だって標準語です」 と開き直る主婦がいる。
 そういう輩には、「 “食べる” も標準語ですけど、どっちを選ぶかは品格の問題ですよね」 と言うことにしている。
 外国人が日本語の特性と評価している点、品格の点、いずれを基準にしても女性であるならば、答えは同じであると思うけれど、「家風です」 とまで言うなら、もはや完璧にお手上げである。それでもって旦那が英語教育にたずさわっていたりなんかしたら、殆ど悪夢である。
 
<了>