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 大学生の頃読んだ 『ブッダ 真理の言葉・感興の言葉』 を著してくれていた中村元先生の本なので、なんとはなしに買ってしまった。社会人を続けていると、宗教心の基礎から少しずつずれてゆくように思えて仕方がない。だから時には、安心して読める中村先生の本を読みたくなる。

 

 

【温かなこころ】
 私がひそかに考えますに、どの宗教でもほぼ似たようなことを説いておりますけれども、とくに仏教の説くところは、いまも話したように「温かなこころ」ということだろうと思うのです。
 これは仏教の伝統的な言葉で申しますと「慈悲」ということですね。 (p.7-8)

 

 

 

【神道にみる慈悲】
 慈悲というのは仏教で説くところだと思われていますが、決してそれだけではございません。神道のほうでも説くんですね。神道はご承知のように長い歴史を持っております。だから全体を通じての簡単な結論は出しにくいですけれども、神道の神詠、神さまがお詠みになったという和歌があります。

 慈悲の目に 憎しと思うものあらじ 咎あるものを なおも哀れむ

 これは、ある学者によりますと、修験道の歌だということを私は聞きました。文献的には十分突き詰めるだけの勉強をしておりませんが、神さまのみ心というものも、神道も純粋につきつめれば、やはりこういうところに帰着するんですね。 (p.31-32)
 

【唐招提寺の語源】
 失明しながらも何度でも日本渡航を企て、ついに成し遂げた鑑真和上。その鑑真和上が創建した唐招提寺。この寺の名称の漢字の意味を知る人は少ない。
 まず、鑑真和上が唐から戒律をお伝えになった寺です。だから唐というのははっきり出てくる。それから招提というのは、妙な字ですが、パーリ語でいうとチャートゥッディサ、その音を写したものです。チャートゥというのは、四ということです。ディサ(ー)というのは、方という意味です。四方の人、出家者の仲間は四方にわたるということです。 (p.34)
 チャートゥッディサ、四方をもって我が家となす。それをドイツ人の学者は世界主義者と訳します。一般的に知られている言葉ではコスモポリタンでしょう。・・(中略)・・「我は万人の友なり、万人の仲間なり。一切の大地をもって我が住処となす」というような文句が、原始仏教聖典にでております。 (p.108)
 チャートゥッディサを日本の諺で言うならば、「人間(じんかん)いたるところに青山あり」ということなのだろう。
 鑑真和上はチャートゥッディサを実践した僧侶だった。

 

 

 

【ヴァーラドヴァージャ:奈良の大仏の開眼供養をしたバラモン僧】
 チャートゥッディサを実践して日本にやって来た僧侶は鑑真和上以外に、もう一人いる。
 インドからはるばるバラモン層がやって来たわけです。奈良の大仏の開眼供養の時に導師をした人です。ヴァーラドヴァージャという元の姓も分かっているんです。・・(中略)・・。
 そこのガイドさんが知っているかと思って聞いてみると「そんなもの、しりまへんな」というだけなんです。けれども古老の人に会いましたら、わざわざ私をお墓のところまで連れて行ってくれました。今から千何百年の昔に、インドからはるばるとやって来た。その人は国境を越えた一つの理想を持っている。(p.108-110)
 奈良の大仏の開眼供養の導師はインド人僧侶であることは、神道を学ぶ過程で知っていたけれど、名前までは知らなかった。それにしても、中学・高校の歴史で、奈良の大仏の開眼供養の導師がインド人僧侶であったと習った記憶はない。なぜ、正確に教えないのだろうか。むしろ国際化した大規模な行事であったという印象が持てたほうが相応しいように思えるのに。  

 

 

 

【綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)】
 弘法大師の「綜芸種智院の式」という文章があります。それはいろいろの芸、つまり学問ですね。芸術も含まれますが、それを総合するといいます。そして、それを人々に伝えて完全な人格をつくる。いわば全人教育とでも申しますか、これを弘法大師は目指していらっしゃった。わが国には本当に素晴らしい先覚者がおられたということに、私は打たれるのです。
 綜芸種智院という言葉は、西洋のウニウェルシタス、ユニバーシティの訳としてピッタリ合うわけです。
 とにかくそういう理想をわが国においても説かれた方がある。弘法さんが綜芸種智院を創られたのは、西洋のボローニャあたりで西洋の大学が創られるより前です。だから本当に先覚者ですね。 (p.128-131)
 しかし、残念ながら弘法大師がなくなられて2年後には経営がなりたたなくなり、お弟子が売り払ってしまったそうである。
 弘法大師に限らず、日本には世界の中でも抜きん出た先覚者は何人もいる。教育がアメリカに支配されているから、この様なことがあまり知られなくなってしまっているのだろう。
 
<了>