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 ライナス・ポーリング博士は、ノーベル化学賞、ノーベル平和賞の2つを受賞したアメリカ人科学者。2度もノーベル賞を受賞していた人物がいたとは知らなかった。
 この本は、アメリカの小学生向けに書かれた本を、日本人化学者が翻訳している。この翻訳された文章、日本語としては最悪である。悪文と言ってしまっていいような類の日本語なのである。内容の如何に関わらず、このままの文章であるならば、日本の小学生に読むことを勧めることはできない。
 巻末には、訳者である多田舜保さん記述の付録が、20頁にわたって記載されている。

 

 

【苦学の秀才】
 1901年に生まれたライナス・ポーリング。彼の父は9歳の時なくなっており、母も悪性貧血の病気に罹り、生活は苦しかった。
 オレゴン州立大学の3年時には、さまざまなアルバイトなどで出席日数も足らず、1年ばかり休学することになった。
 5年かかったが、応用化学課トップの成績で卒業し、24歳で理学博士、30歳でカリフォルニア工科大学の教授に就任した。 (付録:p.10-11)
 
 タンパク質の構造研究に化学、物理学や生物学を用いる開拓者の一人であった。『化学結合論』 など、数多くの著作・論文を著した博士は、40歳でアメリカ、さらには世界の著名な理論化学者として知られるようになった。 (p.69)

 

 

【博士の道徳性】
 この本の翻訳者である多田先生はこのように記述している。
 ポーリングについて、筆者が最初に関心を持ったのは、学生時代に彼著 『 General Chemistry 』 の中で、「世界がよくなるには、技術的な進歩と道徳科学 Moral Science の進歩が必要である」 ことを述べているのを読んだからであるが、このように化学の図書で、道徳科学という文字があるのを、これ以外に未だ見たことがない。 (付録:p.14)

 

 

【博士の人間性】
 第2次世界大戦中。
 博士の国に対する顕著な働きにも関わらず、アメリカ合衆国陸軍から脱走した若い日系アメリカ人の兵士を一時的な庭師として雇った親切な行ないにより、ポーリングは社会の激怒を受けた。
 ある朝、彼は車庫のドアに見慣れない絵がかけてあるのを見たのだった。
 日本の国旗がかかげられ、その下にアメリカ人は死ね、われわれは日本人を愛してると。それから匿名の電話と手紙による脅迫がポーリングの家にされた。
 この脅迫にもかかわらず、夫妻は日本人の庭師を、彼らがシュルビーの野営地に返されるまで守った。そして、警察官は24時間、彼の家族を敵意のある近所の人々から警護した。 (p.77-78)

 

 

【世界平和のための積極的な努力】
 博士は世界平和のため、科学者で連盟を作り、核実験停止を呼びかけたり、デモに加わったり、アメリカが水爆実験の再開をした時、ケネディ大統領に電報で抗議したことは有名である。
 ポーリングが、このような平和問題に関心を持ったのは、第二次世界大戦で、原爆が落とされ、一瞬の間に、十数万人が死亡したことにたいしての悲しみや憤りと、今後このようなことが絶対にあってはならないという考えからである。・・(中略)・・ポーリングは1945年以降十数年間、世界平和のためには、何よりまず核実験を停止し、廃止してゆくことが重要であることを、アメリカ国内はもとより、世界数十カ国で講演し訴え続けている。 (付録:p.13)

 

 

【アメリカ政府のパスポート発行拒否】
 第二次対戦が終わり、米ソ冷戦に移行していた時期である。
 1952年、タンパク質の研究者であるポーリングは、ロンドンの王立協会の会議に出席するよう招待を受けた。
 博士はイギリスへのパスポートを申請した。
 彼の驚いたことはアメリカの部局はパスポートの発行を拒否した。彼の驚きは、「アメリカのよい利益にならない」という当局の拒否理由を知らされて、倍加した。科学者の知識の交換がなぜ、アメリカのよい利益にならないというのだろう?
 本当の理由は、やがて分かってきた。博士の戦争と平和についてと原子爆弾の実験についての講演が、アメリカ政府に不評判になっていたためである。 (p.87-88)

 

 

【ノーベル化学賞、受賞の知らせ】
 しかし、ことは変わった。1954年、彼の化学結合と分子構造の発見に対し、ノーベル化学賞が授けられることになった。 ・・(中略)・・
 「この偉大な行事にパスポートを得ることが出来るのだろうか?」聴衆の一人が尋ねた。
 「どうなるか分かりません。かつて、ドイツのナチはノーベル賞受賞者にそのような苦しめをしたことがあるが、私はアメリカ合衆国がそのようにすることは期待していません」 ・・(中略)・・
ちょうど偉大な日の2週間前、パスポートが到着した。  (p.90-91)

 

 

【ケネディ大統領主催の晩餐会】
 1962年、大統領は50人の有名なノーベル賞を受賞した科学者と作家を、晩餐会に招待した。ポーリング夫妻が大統領に会った時、ケネディ夫人とケネディ大統領は微笑んだ。
 「ポーリング博士、私はあなたがすでに2日間ホワイトハウスの周りに居るのを知っていますよ」彼は言った。「私はあなたが、あなたの意見を表すことを続けることを希望します」    (p.104)
 晩餐会の前日、博士は「原爆禁止」、「実験反対」を叫ぶデモに参加していたのである。
 この時期、ケネディ大統領は、ソ連との間で最高に緊張の高まったキューバ危機に直面していたのである。

 

 

【核実験禁止条約の締結:ノーベル平和賞受賞】
 1963年10月10日、博士と彼の妻が長い間、熱心に努力した核実験禁止条約が、アメリカ、イギリス、ソ連との間で署名された。
 ついに世界は聞き入れ理解し、同意した。同じ日、ライナス・ポーリング博士は核実験禁止の条約について彼の仕事がもたらしたことについて、ノーベル平和賞を授けられた。
 今まで異なった分野のノーベル賞を2つも受けた者は誰もいなかった。  (p.105)
 ライナス・ポーリング博士。この偉大な人物を、私はこの本に出会うまで知らなかった。
 ともあれ、いまや核問題ではなく地球環境問題で各国が一致して立ち向かわねばならない時なのに、てんでバラバラである。
 ライナス・ポーリング博士が努力し核実験禁止条約が締結されて間もなく、それを嘲笑うかのように核実験を行った中国が、現在、最も地球を混乱させかけない巨大なトラブルメーカーになっている。
 これを歴史の皮肉であると安易な言葉で締めくくれば済むような地球の状況ではない。
 
<了>