イメージ 1

 

 小学校低学年向けの書籍。オーストラリア原住民・アボリジニに関するストーリー。

 

 

【ストーリー】
 大英帝国連邦下のオーストラリアでの出来事である。
 原住民のアボリジニと白人との間に生まれた子供たちは、政府によって母親から引き離され強制的に施設に送り込まれて育てられたのだという。
 肌の色がアボリジニよりやや薄いハーフの少年が連れ去られてしまうので、灰の中に焼け残っていた木の棒で肌を黒く塗りこめて守ったのだという。2度までは成功したけれど、3度目の抜き打ち訪問では防ぎようがなく、ついに連れ去られてしまった。

 

 

【これも、白人社会の「威信のシステム」なのか?】
 混血児だけが、何故?
 納得できる説明などありえない。
 これも、大英帝国という白人社会が有する 「威信のシステム」 としての一貫なのか?
 憮然としてしまう。

 
【アボリジニ文化に触れるには】
 パースに滞在した時、オーストラリア現地の旅行会社が主催するツアーに参加したことがある。アボリジニとのコネクションは現地の旅行会社が握っているらしい。ヤンチャップ国立公園では、長頭で髭モジャのアボリジニの青年が、アボリジニの様々な生活文化を実演して見せてくれたのだけれど、日本の旅行代理店が主催するツアー客には見られないよう、生垣で囲われた場所で実演をしていた。
イメージ 2
 故に、アボリジニの生活文化に直に触れたいのなら、日本人も現地の旅行会社を利用したほうがいい。難しい英語を使って話すのではないし、槍の投げ方とか、カンガルーの毛皮の使い方とかの実演なのだから十分よく分かる。
 斧を作る実演をしてくれた時、火をつけるのに、ライターを使いながら、“ big faster (ずっと早い) ” と言っていたから、失笑してしまったのだけれど、「(この失笑は)アボリジニ文化に対して失礼でした、ごめんなさい」 と瞬時に自己反省したものです。
 何かの樹皮と植物と鉄分を多く含んだ赤い土を摺って混ぜ合わせた粉体を木の棒につけて火にかざすと水飴のようになり、それに尖った硬質の石を装着して斧をつくっていた。水飴状の部分は温度が下がると石のように固くなるのである。
 この時造られた小さな斧は、イングランドから一人でやってきた高校生がお土産にもらっていった。香港から来た夫妻と我々はブーメランを手に持ち、このアボリジニの髭モジャ青年と一緒に記念写真を撮ったのである。
 わずかばかりの時間ではあったけれど、このアボリジニの青年に出会わなければ、オールトラリア滞在の価値は半分以下になってしまったのではないかと、今は思っている。

 

 

【アボリジニ】
 訳者による「あとがき」の部分。
 1788年、シドニーにイギリスが植民地を開いた際、アボリジニは狩猟採集の生活を送っていました。約50万人、600部族それぞれの領地を持っていたとされています。
 しかし、白人の移住者によって、アボリジニはさまざまな犠牲を余儀なくされました。土地を取り上げられ、昔からの食料源や水源をたたれたり、迫害され虐殺されたり、また、移住者が持ち込んだ病気に感染したりすることもありました。アボリジニの人口は、入植から100年で約18万人に、その後、20世紀前半には6万人台まで激減します。
 1910年から60年代にかけては、アボリジニを白人に同化させようとする政策のもと、アボリジニの子供が親元から強制的に引き離され、施設に収容されたり、白人の家庭に引き取られました。その数はおよそ10万人にも及びます。 (p.87-88)

 現在のオーストラリアは、白人中心の社会から、さまざまな民族が共存する多文化主義の国に生まれ変わっている。   (p.93)
 ヤンチャップ国立公園でチャンちゃんを案内してくれたアボリジニの髭モジャ青年も、肌の色はそれほど黒くはなかったから間違いなくハーフである。年齢からいって直截には同化政策の期間に該当しないかもしれないけれど、彼の両親のいずれかは、この本の中に描かれている少年と同様に、家族から引き離されて育ってきたに違いない。
 この本を読んで思い出したアボリジニの髭モジャ青年。彼の澄んだ瞳の奥に、透明な海の底に深く深く沈んだかのような憂いがあったのを思い出していた。
 
<了>