これも 『ラッキーナンバー7』 と同様に、ドンパチが連続する映画。しかし、同じように殺人場面が急速に展開しながらも、フランス映画にはアメリカ映画にない詩情がある。


【正義派と野心派】
 2人の警部。正義派と野心派。
 野心派のフランが、まんまとやりおおせた場面では、最高の圧力で圧搾された空気がわたしの顔を真っ赤にさせていただろう。
 正義派のブリンクが刑務所から出てきた場面からは、高らかなマーチに合わせて進軍する兵士のように、私は動悸を高鳴らせていた。しかし、ブリンクは私より遥かに冷静であったし、最後の結末もやや意外なものだった。
 しかし、卑劣や奴は必ずやこの世から消える。実際の世界では必ずしも実現するとは限らないその願望公式が、ここでは実現しているから、この映画を観てストレスが溜まることはない。もしも、フランに何事もなくこの映画が終わっていたら、大きなお皿を床に叩き付けたくなるだろう。


【宗教的世界観と現実的感情】
 この映画は、宗教的な世界観(因縁論)で俯瞰して観てしまっては面白くない。あくまでも現実的な感情で素直に感じ取って心を解放するからこそ、有意義な映画なのだと思う。
 公的な責任が付きまとう職業(例えば教員とか警察官)の人々の内面は、そうでない一般職業の人々より、かなりドロドロしているのは心理学者の認めているところである。
 社会的な善を推し進めるのが仕事であると勘違いするのは勝手であるが、そのような勘違いを継続する限り、人は人生の本質を捉えることはできない。あらゆる心の枷を取り外した状態でなければ、人の直感は働かないからだ。逆にいうならば、直感の働かない人々こそが、社会的規範を絶対遵守すべきであると信じて疑わないという集団心理で人間社会を呪縛する人々なのである。当然、自分の自由さも縛られているのであるが、それを不自由と感じていないらしいから、幸せな人々なのである。
 社会人になったら、暴言を吐いただけで脅迫犯と言われてしまうから、野心の為に平気で虚言を並べることのできる最低の人格者に接している人は、社会人として正常な心の状態を保つためにも、この映画は役に立つ。いわゆるガス抜きができるからだ。
 そして、この映画は警察官の物語でありながら、それほどドロドロした感じはない。同じ警官でも、日本とフランスとでは違うのだろう。日本人には野心派に追随する金魚のウンコ派が圧倒的におおいはずだ。


【フランス映画の雰囲気】
 ブリンク(レオ)役のおじちゃんがカッコイイ。フランス映画の配役たちは比較的高齢の人々が登場しているから、それだけで雰囲気がある。そして街並みがいいし、こんなドンパチ映画であっても、静かな場面ではBGMにも心が誘われる。
 フランス映画に感じられる雰囲気の出所は何なんだろう。哲学的な考察にウンザリすることも多いけれど、もしかしたらフランス文学では、詩的な表現が好まれているのかもしれない。聴いている感じでは、イタリア語が音楽的であるとすれば、フランス語は詩的であるように思えてならない。

 

<了>