イメージ 1

 古事記を基にしているとはいえ、肩のこらない夜話として語られているため、頭というよりは心に残りやすい。特に、前半から中盤にかけて、倭比売(やまとひめ)と日本武尊(やまとたける)の物語に関する著者の思い入れは格別のようだ。

 

 

【詔り直し(のりなおし)】
 「詔り直し」とは、このように他人の言葉や行いを表面の現象だけで悪いと決め付けることなく、幾度も見直し聞き直し、考え直して、その良いところを取り上げて許す寛容の心である。 (p.64)
 糞をまき散らしたり田んぼを壊したスサノヲノミコトの乱暴狼藉を、天照大御神はとがめないどことか、悪い行為の中に善意を見直して許してやろうとされた。「詔り直し」 は単なる 「寛容だけ」 ではない。
 神道を学んでいると、この 「詔り直し」 という言葉を耳にすることが多い。

 

 

【古代日本人の生き方・神道に基づく生き方】
 高貴なるものを求めひたすら神に近づこうとする参上(まいのぼ)りの心は、弱きものから強きものへ、醜きものから美しきものへ、穢れたるものから清らかなものへ、おのれを高めてゆく精進であり、修理個性の努力である。古事記は人間の性を良きもの、清く明るきものと信じ、性悪説を採らない。しかしその清く明るき心が、心弛めば外からの誘惑や汚染に引きずられ、ツミトガケガレ(罪・咎・穢れ)を生ずるのが人間の弱さである。その時は直ちにミソギハライ(禊ぎ祓い)をして、怨霊や憑き物の類あれば祓い除き、心に油断あれば引き緊めて穢れを去り、本来の清明心  <本文は “情明心” となっているが誤記であろう>  に帰ればよい。原罪観に悩んだり、よく見直せば何の実体もないものに執着したり、過ぎ去ったことに拘泥したりすることを忌むのが、古代日本人のおおらかな生き方であった。 (p.86)

 

 

【国史編纂】
 国史(古事記・日本書紀)編纂は・・・・平城京の仏教政治に悩んだ国民思想の統一のためにも切実な要求であった。日本の国体と国史のかくも古く美しいことを示して、大陸帝国に遜色なき独立国家日本の権威を保とうとする意図は、日本書記において特に積極的であった。古事記の素朴簡潔なる文章にこもる深い意味は、シナ人や朝鮮人には分からない。分かるように漢文化して表現したのが書紀だが、それ以上のものがある。 (p.160)
 言うまでもないことであるが、漢文表記の 「日本書紀」 に対して、大和言葉表記の 「古事記」 である。
 大和言葉を欠いて日本語はありえず、日本語を欠いて日本人はない。大和言葉こそが日本人である。

 

 

【半島からの政治難民 と 朝鮮征伐 を繋ぐ系譜】
 戦乱のシナや朝鮮から平和な日本へ亡命、移住してくる者は多かった。これを迎える日本の対応は見事であった。垂仁天皇が示されたような大きな暖かい心を持って彼らを安住せしめ、その能力に応じて存分に活動せしめた。新羅の王子・天日鎗(あめのひぼこ)はその代表的なものであり、垂仁天皇の御陵前で叫び哭いて死んだ忠臣、田道間守(たじまもり)はその玄孫(4代目)である。
 田道間守の話は、天皇の御仁慈がいかに帰化人に感激を与え、彼らがいかに自然に日本人に同化し、一君万民、君民一体の国体秩序の中に溶け込み、日本的情操と道義をしっかり自分のものにしていたかという実例を示したものといえる。 (p.186、p.246)
 さて、垂仁天皇の忠臣であった新羅系の天日鎗、田道間守の系譜から、神功皇后が出ている。朝鮮征伐のために軍隊を送った勇猛果敢な女帝である。朝鮮半島から難民として逃れてきた一族の血を、一部とは言え引き継ぐ女帝によって朝鮮征伐は行われたのである。韓国の教科書は、この血の繋がりにまで、しっかり言及してはどうか。

 

 

【草薙剣(くさなぎのつるぎ)の神威】
 東国平定の旅に出た日本武尊(やまとたける)は、身の安全を守るために倭姫から渡された神剣・草薙剣を、尾張の国にいた美夜受比売(みやずひめ)の元に置き忘れたがために、無残な死を迎えてしまう。著者のこの物語に寄せる心情は、並みのものではない。無念この上ないといった表現である。無残な死ではあったが、日本武尊の御霊は大きな白鳥となって空高く翔り飛んでいったという。 
 神剣、草薙剣の神威が示されたのは、日本武尊が携行していた時ばかではない。こんな場合にも神威が示されている。
 日本武尊が美夜受比売のもとに残された草薙剣を姫が祀られたのが、熱田神宮の起源である。天智天皇の御宇、この神剣を新羅の坊主が盗み出して国に持ち帰ろうとしたが、海上で暴風雨にあって吹き還され、神剣は御無事で犯人は誅殺されるという事件があったが、神意赫々、当然のことであろう。 (p.222)
 
                                            <了>